「それまで30人の組のうち、車を持っていたのはふたりだった。組長が、河合が車を買ったから、忘年会に行くのに便利だ、と。あの頃、忘年会というと蒲郡(がまごおり)に行っていた。蒲郡で競輪をやって、近くの温泉に泊まる。オレはまず蒲郡競輪まで仲間を乗せていって、一度、戻ってくる。そして、今度は競輪をやらない連中を温泉に連れていく。他の2台も同じ。2台しかないと、何度も往復しなければならないけれど、3台あれば競輪へ送るのと、温泉へ行くだけでいい。車があれば便利だし、楽しさが増すと実感した時代だった」

 河合は自家用車を持っていただけでも恵まれていたのである。

 先述の池渕の場合は自分の車を持つまでは社内の「グリーンクラブ」に入っていた。何十人かで金を出し合って、数台の中古車を買う。それを年に何度か使うことができる。

 使うことができる日はみんな、休暇を申請した。すると、上司は「お前、当たったのか。よかったな」とにっこり笑う。そうして、家族と一緒にドライブに出かける。車に乗ることができる日は大っぴらに会社を休んでかまわなかったのである。

工場の食事

 トヨタの現場で働いていた人間にとって喜びとは働いて金を稼ぐことだが、工場生活で重要なのが食事だった。

 工場がある場所は市街地ではない。荒れ地、林を開拓して作ったわけだから、まわりには商店や飲食店はない。食べるところはないから、トヨタの生協(トヨタ生活協同組合)が出す工場の食事が何よりも楽しみだった。

 工場が増えるにしたがって、生協が運営する食堂の数も増えていった。1962年から4年間で18の食堂を設営し、組合員は1万729名(1961年)から10年間で5万5647名になった。生協もまた現場の人間にたくさん食べてもらおうと奮闘していたのである。

 1960年代の工場の食事は麦飯とおかずがついた定食が1種類だけである。

 当時から生協にいる萬壽(ばんじゅ)幹雄は「麦飯です。オートライマーという弁当箱に張った麦飯を水蒸気で加熱して炊いたものでした。炊飯器よりも味は落ちます」という。

 ただし、鮭、サバ、ニシンといった焼き魚はいまよりも格段においしかった。なんといっても、その頃、炭火で焼いていたのである。食べる時には冷めていたけれど、それでも炭火でこんがりと焼いた魚だ。ガスのロースター、グリルよりもそれはおいしいはずだ。

 1970年代に入ると、定食の数は増え、麺類などのアラカルトメニューが登場した。ご飯は麦飯から炊飯器で炊いた白米になった。量は多い。ご飯茶碗で2杯と半分(300グラム超)が一人前というから、現場の人間はよく食べたということなのだろう。しかも、おかわりは自由である。

(写真=おおさき こーへい)

 おかずも魚からとんかつ、しょうが焼きといった肉類に変わっていった。いまと違っているのは食卓に「トヨタ」と書かれた大きな灰皿があること。高校生と同じだ。食後の一服は当たり前だったわけだ。

 萬壽によれば「とんかつがいちばん人気でした。とんかつが出た日には一度食べた人がまた行列の最後に並んでもう一度、食べる。それもひとりやふたりじゃなかった」

トヨタ生活協同組合の協力で、往時の食堂の食事を再現してもらった。
左が1959年当時のもの。麦飯と一皿に盛られたおかずのセットで、全員が同じ食事だった。中央は65年当時で、おかずがプレート上で小分けされ、品数も増えた。右は70年代に不動の人気を誇ったとんかつ定食。たっぷりの白米と肉の黄金タッグだ。
75年以降は、上のようなおかずから好きなものが選べるカフェテリア方式が導入された

(写真=おおさき こーへい)