(イラスト=五島 聡)

 自動車が売れたので、工場を増設し、働く人を集める。毎年の新入社員が入ってくるのを待てなかったから、1960年代から70年代の自動車各社は臨時工、期間工を集めた。トヨタもまた例外ではない。

 「あの頃、炭鉱の閉山が続いた。すると、炭鉱で働いた人たちがトヨタにやってきた」

 鍛造の現場にいた河合満(現・専務役員)はそう思い出すが、炭鉱労働者、農家からの出稼ぎといった人々がトヨタの工場に続々と移ってきたのである。

自分の車
「オレたちが若い頃はみんな、自分の車が欲しかった」と振り返る専務役員の河合満(左)。右写真は若かりし頃の河合が3台目の愛車カローラと一緒に写った1枚(写真提供=トヨタ)

 河合のように近所にあった自宅から通ってくる人間もいたが、単身者は寮に暮らし、工場の食堂で食事を摂った。

 勤務形態は主に昼夜二交替である。昼勤は午前8時に出勤して、昼食の休みの後、午後4時まで働く。夜勤は午後10時に来て、翌朝午前6時に終わる。昼勤と夜勤は時々、入れ替わる。

 また、この間隙(かんげき)を埋めるのは三交替の人員だ。いまから考えると、遅番から早番に移った日は辛かっただろう。だが、高度成長の頃はどこの工場でもほぼこういった勤務だったから、働いていた人間は特別、「自分は苦労している」とは考えなかった。

 河合が自動車会社に入って「他よりもよかった」とつくづく感謝したところは自家用車が安く買えることだった。

 「あの頃の若いやつはみんな、自分の車が欲しかった。オレは入社した年、18歳で中古のコロナを買ったけど、そりゃ、とんでもなく嬉しかった。たしか30万かな。オレだけでなく、30人いた組(班のひとつ上の職域単位)の連中、とくに組長が喜んだ」

 河合が自家用車を買ったのは1966年のことだ。それより6年前に入社した元・副会長の池渕浩介は「従業員が1万人いたけれど、部長以下で車を持っていたのは4人だけ」と言っている。1960年からの数年間でいかに車が普及したかがわかる。

 さて、車を買ったのは河合なのに、組長はどうして、それほど喜んだのか。