(イラスト=五島 聡)

 1966年、大野耐一は常務だった。やっていたことは相変わらずトヨタ生産方式を推進し、社内に定着させることだ。

鍛造の現場

 戦後すぐに機械工場で機械の2台持ちから始まったトヨタ生産システムはおおよそ、次のように進行していた。そして全工場でトヨタ生産方式が定着したのは70年代に入ってからのことになる。

①後工程の引き取り(48年)
②エンジン組付けラインにアンドン採用(50年)
③標準作業の設定(53年)
④かんばん方式導入(機械工場 53年)
⑤組み立て工場と車体工場の同期化が完成、全工場へのトヨタ生産方式の導入に着手(60年)
⑥全社で、かんばん方式を全面的に採用(62年)、プレス段取り替えの短縮(62年)

 66年頃にはトヨタ生産方式の主な手法はすでに開発されており、それを各工場に導入しているところだった。大野はビジョンを語り、補佐役の鈴村喜久男が号令を発する。その下にいた張富士夫、池渕浩介、さらに好川純一、内川晋といった人間が現場へ出向いていって指導をした。

 しかし、66年、河合満(現・専務役員)がいた鍛造部門にはトヨタ生産方式はまだ浸透していない。鍛造はひとつの型の部品を鉄が焼けているうちに打ち出す。ひとつの型を使い、短時間でなるべく多くの部品を打ち出すのが常識とされていた。小ロット生産をめざすトヨタ生産方式を導入しにくい職場状況だったのである。

職人仕事が幅を利かす鍛造工程にトヨタ生産方式をいかに定着させていったのか。当時、鍛造の現場にいた河合満(現・専務役員)が語る(写真=おおさきこーへい)

 当時の鍛造現場はこんな様子だったなと河合は思い出す。

 「鍛造の現場はラインではない。3人から4人が一組になって仕事をする。簡単に言えば鉄でできた丸棒の素材を部品に仕立てるわけだ。

 『棒芯』という係がリーダーだ。この人が指示を出す。次は『窯焼き師』。ピザ窯みたいな窯の前で丸棒を焼く係。窯焼き師は1260度まで熱した鉄の棒材を取り出すと、棒芯と『型打ち師』がペダル式のスタンプハンマーで型打ちして、部品にする。もうひとり、『バリ抜き』って係が部品をトリミングする。つまり、型からはみ出した鉄のバリを取る。

 そりゃ、熱いよ。窯焼き師は重油とエアを混ぜた燃料で真っ赤に燃えてる炉の前で仕事をするわけだからね。ただ、時々、係は交替する。そうでないと熱くてやってられん。

 僕らは作業服に安全メガネをしてたけれど、戦後すぐの頃の写真を見たら、越中ふんどしを締めて、前掛けをかけた窯焼き師が下駄を履いて、火をかぶりながら仕事をしていた。自動車工場のなかでも、もっとも過酷な職場だよ。だって、他の職場の作業者よりも1時間当たり12円か13円、給料が高かったもの」