前回までのあらすじ

 戦争を生き抜き、終戦後、商人になることを決意した藤田俊雄は、異父兄の貞夫、母とみゑが営む洋品店「洋秀堂」(後にヨーシュウ堂に改名)で奮闘する。店は売り上げを伸ばし、衣料品に加え食料品も扱う店へと成長した。だが、肉親としてはもちろん、商売の師として慕っていた貞夫が急逝する。葬儀の後、もう一人の異父兄、正夫に「店を乗っ取るつもりか」と問われ、俊雄は動揺した。

「この店が私のものだって、これっぽっちも考えたことはありません」

 俊雄は、親指と人差し指を微妙に離して重ね、「これっぽっち」を強調した。

「それならいいんだ。あんたがこの店を乗っ取ろうとしているっていう噂を耳にしてさ。大事にならないうちにちゃんとしておこうと思ってさ」

 正夫が鼻で笑う。言葉遣いもあんた呼ばわりでぞんざいになった。

「母さんが、社長になればいいと思っているんだけど、年だからね。だったら菊乃さんが社長になるべきだ。まだ子どもたちは小さいからね。私は、その後見人になろうと思っている。弟だから当然だろう?」

「菊乃義姉さんが、そんなことをおっしゃっているのですか?」

 菊乃は、とみゑのように店に顔を出すわけではない。社員の食事を作るなど、あくまで裏方に徹している。それに幼い子どもの世話にも忙しい。

「菊乃さんも承知だよ。せっかくここまで立派にしたんだ。このまま経営者不在にしておくことはできないだろう。ヨーシュウ堂の代表社員の貞夫兄さんが亡くなったのだから、その後は菊乃さんと母さんが相続するのは当然のことだよ。あんたじゃない。だから私が当面、面倒を見て、いずれ貞夫兄さんの4人の子どもが大きくなったら、譲り渡すつもりだよ。俊雄さんの処遇だが、結婚もしたことだし、ここから出て、自分で店を持ったらどうかな」

 正夫は勝ち誇ったような表情で俊雄を見ている。

「私にこの店を出て行けとおっしゃるのですか」

 俊雄は怒りに体が震えそうになった。しかし耐えた。

 嫌らしい笑みを浮かべ、正夫は「私は、今すぐ出て行けとは言わないさ。しかしあんたは合資会社の有限責任社員に過ぎない。だからこのままこのヨーシュウ堂にいるより独立した方がいいんじゃないかと親切に言っているんだ。全く援助しないわけじゃない。それじゃよく考えてくださいよ。相続手続きの時間もあるからね。あまり時間はないんだ」

 正夫は、まるで最後通牒のように言い放った。灰皿に煙草を押し付けるようにもみ消すと、呆然とする俊雄を残して立ち去った。

 俊雄は、息が苦しくなるほど憤った。両手拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込んでいる。血が流れ出ているかもしれない。

 貞夫と一緒にヨーシュウ堂を盛り上げてきた日々が浮かんでは消える。商品が集まらない時には一緒に仕入れ先を何軒も回って、頭を下げた。俊雄が看板を塗り替えようとすると、手先が器用な貞夫が、「止めろ、止めろ」と言い、ペンキを持って梯子に昇って、巧みにヨーシュウ堂と書いた。どうだ、大したものだろうという得意げな貞夫の顔が忘れられない。雨の日に、俊雄も貞夫も、軍用コートを体に巻き付けるように着て、自転車が転倒するほどの商品を積み込んで、千住大橋を競走して渡った。北風が容赦なく顔を打ち、痛くてたまらなかった。とにかく貞夫についていく、貞夫から商人の心得を学ぶ、それだけを心に決めて走ってきた。

 それが突然、1人、置き去りになってしまった。そして将来について悩んでいたら、部外者というべき正夫に出て行けと言われる。いったい今までの苦労はなんだったのか。貞夫は、こんな試練、こんな悔しさを自分に与えるために先に旅立ったのか。そんなことなら自分が死んだ方がましだ。相続争いなどという、商売とは全く無縁のことに悩むくらいなら……。

 あれほど貞夫と一緒に苦労したのに……。ヨーシュウ堂の発展には貢献しているのに……。