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前回までのあらすじ

 藤田俊雄は食料品店を営む母とみゑと遊び好きな父勝一の間に生まれたが、両親は離婚。俊雄はとみゑとともに異父兄、貞夫が浅草に開いた洋品店で暮らし、鉱山会社に就職する。戦時中、出征した俊雄は、仲間の兵士や道で会った老婆が、目の前で米軍に撃たれて殺される体験をする。とみゑや貞夫は空襲で焼け出されたが、北千住で商売を再開した。俊雄は生き残った意味を考えていた。

 俊雄は財閥系鉱山会社に復職した。はっきり言ってまだ何をしたいか見えてはいない。

 ただ、動かないといけないと思ったからだ。生き残った者の責任を果たすとはどういうことなのか、どうするべきなのか、をずっと考えていた。

 復職をすると言うと、母とみゑは「赴任地の秋田はもうすぐ寒くなるから」と綿がたくさん入った布団を持たせてくれた。

 自分たちは、綿がほとんどない薄い布団で寝ているにも拘わらず、厚い布団を持たせてくれた。俊雄は、とみゑへの感謝で胸が熱くなった。

 どうやったら親孝行ができるか、どうやったら生き残った者としての責任が果たせるか、俊雄は秋田で考えてみようと思っていた。

 俊雄の勤務先の鉱山は、秋田県の八幡平方面にある深山にあった。ここは時間が止まっていた。

 戦争で東京が空襲を受け、多くの人が亡くなったことも、ましてや秋田県の海側の町には終戦直前の8月14日から終戦当日の8月15日にかけ大規模な空襲があったことも、どこか遠い国の話のようだった。

「藤田君、この取引先宛に催促の手紙を書いてください」

 総務課長は、眠ったような声で指示をし、取引先名を書いた書類を渡す。

 俊雄は憂鬱になる。あまり字が上手くないのと、会社は旧態依然とした「候文」で手紙を書き、仕事を記録しているからだ。

「先達て御買い取り被下候、物品の代金……」

 途中まで書き始めたが、訳が分からなくなり頭が痛くなる。こんなことをするために生き残ったのだろうかなどと余計なことに気が回ってしまう。

「ちょっと食堂に行ってきます」

 俊雄は立ち上がった。

「食堂? お昼じゃありませんよ」

 総務課長が、黒縁眼鏡を右手の指先で持ち上げる。不満そうだ。

「昼ご飯を食べるんじゃありません。行ってきます」

 俊雄は総務課長を無視するように部屋を出た。

 食堂に行き、お茶でも飲んで気持ちを整えなければ、「候文」など書けやしない。

 食堂に行く途中に図書室があった。あまり本を読まない俊雄は利用したことが無い。

 しかしこの日ばかりはなんだかむしゃくしゃしていたため、ふらりと中に入った。

 図書室は、いくつかの棚が並び、その棚に本が隙間なく並んでいた。

 見るともなく俊雄は棚を見て歩く。下宿ではすることがない。友達もいるわけではない。酒を飲んだり、歌を歌ったりして皆と騒ぐことは好きではない。

日経ビジネス2018年5月21日号 60~63ページより目次