全4990文字

 俊雄は仕事を終えると、下宿に飛んで帰った。

 夕食も食べずにとみゑが持たせてくれた布団で体を包み、電気スタンドの明かりでむさぼるように相馬の本を読む。

「私はまだ素人だ」「中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いて来ている」

 相馬の言葉が、ものすごい勢いで体に入って来る。砂漠に水が沁み込むようにという喩えがあるが、その喩えを初めて実感していた。

 相馬は、本郷の東大の前にあった中村屋というパン屋を購入する。流行っていた店なのに上手く行かなくなっていたのだ。

 なぜ上手く行かなくなったのかを分析し、5つの誓いを立てる。

「営業が相当目鼻のつくまで衣服は新調せぬこと」

「食事は主人も店員女中たちも同じものを摂ること」

「将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと」

「原料の仕入れは現金取引のこと」

「右のように言い合わせ、さらに自分たちは全くの素人であるから、少なくとも最初の間は修業期間とせねばなるまい。その見習い中に親子三人が店の売上げで生活するようでは商売を危くするものであるから、最初の三年間は親子三人の生活費を月五十円と定めて、これを別途収入に仰ぐこと。その方法としては、郷里における養蚕を継続し、その収益から支出すること」

 相馬は、この5か条を中村屋の盟とし、「なにぶん素人の足弱であるから慎重の上にも慎重を期して」と言う。

 販売先に賄賂というコミッションは払わない。正直な商売をし、薄利多売主義で行くが、正当な利益は受け取る。経費以下の利益で商売をするのは「不都合な商人」である。商店は一家である。無理な金を使って仕事をすることは固く戒めなければならない……。

 ページを繰る度に、とみゑや貞夫の顔が浮かぶ。相馬の言葉ととみゑや貞夫の言動が完全に重なり合う。2人は店員を家族と思い、慈しみ、大切にし、正直、倹約、勤勉、借金嫌いに徹する。慎重の上にも慎重に事を運び、どんな困難にも自分の力で立ち向かう。

──他人におもねず、独立独歩の自由こそ商人の本質……。

「商人になろう」

 俊雄は布団を撥ね上げた。体が火照る。体内から力が湧いてくる。目が潤んできた。涙だ。涙で滲む先に何かが見えてきた気がする。しかしまだ形にならない。

 今からでも遅くない。とにかくとみゑと貞夫に頭を下げてでも商人として修業をさせてもらおう。不器用な自分が生き残った意味を探り、理解し、その責任を果たすには商人になるしかない。安定した勤め人の生活を捨てることをとみゑや貞夫は反対するだろう、しかし説得しようではないか。

 俊雄は、相馬の本を抱きしめて、部屋の窓を勢いよく開けた。冷たい風が吹きこんでくる。火照った体には心地よい。

 外は暗闇だ。夜明けはまだ先だ。しかし明けない夜はない。やがてこの暗闇も光に満たされるだろう。

「東京に戻る」

 俊雄は強く言いきった。

(第2章 了)

*この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
日経ビジネス2018年5月21日号 60~63ページより目次