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 母とみゑを思い浮かべた。

「母さんは独立独歩だ」

 とみゑは商家に生まれたが、苛酷な運命に翻弄されている。今も苦労が続いている。

 もしそんな危難が襲ってこなければ商家のお嬢様としてサラリーマンと結婚して平穏な人生を営んでいたかもしれない。

 しかしそれは許されなかった。とみゑは多くの危難に遭遇するうちに他人や他者に自分の運命を決められるのが嫌になったのだろう。

 自分で自分の運命を切り開きたい。それには商人になるしかない。商人であれば自分で自分の運命を決められる。

 異父兄の貞夫のことを考えた。貞夫はとみゑと藤田進との間に生まれた。

 実父進が早死にしなければ、大学に進学し、進と同様に新聞記者になっていたかもしれない。

 しかしそれは叶わなかった。進が亡くなったため、勉強好きにも拘わらず尋常小学校で勉学を終え、とみゑの店を手伝ったり、武秀に預けられたりと働き続け、商人として独立する道を選んだ。その理由は、やはり他人に運命を決められたくないからだろう。

「相馬さんは、奥さんが病気になられたため、信州から転地療養の為に東京で商売を始められたのか……」

 相馬が書く、その部分を俊雄は声に出して読む。

「東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒えた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤め嫌いな私であるから、では商売をしようということになったのである……」

 信州の山々に囲まれた生活が合わず、体調を悪化させていく相馬の妻に俊雄は自分自身を重ねた。

 このまま秋田の深山の中で「候文」に苦労しながら、心身を朽ち果てさせていいのだろうか。

 総務課長の眠ったような声で指示される仕事をこなすだけの人生で時間を消費するために生き残ったのか。そうではないだろう。俊雄は、相馬の本を両手に載せたまま自問自答を繰り返す。

「独立独歩……」

 自分で自分の運命を切り開くという「独立独歩」という言葉の甘美な響きに酔いしれる。

 相馬はなにも商人に向いているから商人になったわけではない。むしろ早稲田大学を卒業し、養蚕業の研究者として書物も出版するほどの学究肌の人物である。

 腰を曲げ、揉み手すり手をし、客に媚びるのが商人のイメージであるとすれば、全くそうではない。きっと理論から物事を探究し、納得しなければ動かないタイプだろう。俊雄は自分を相馬に重ねていた。自分も商人には向かないタイプの人間だと思っているからだ。他人に媚びを売り、口先を滑らかに動かすのは得意ではなく、嫌いだ。納得しなければ動こうとしないため、軍事教練でも軍隊でも上手く立ち回ることができなかった。そんな自分でも相馬のように商人になれば、「独立独歩」で自由に振る舞うことができるのだ。

 俊雄は、空を飛びたくなった。蝉が何年も地中で過ごし、太陽の熱に促されて地上に出て、木に登り、翅を形づくり、青空に飛び立つ。俊雄は蝉になった気分だ。たとえ数日の命でもいい。せっかく生き残ったのだ。太陽が燦燦と照り輝く世界を思いっきり飛び回りたい。

 俊雄は『一商人として』を借り受け、図書室を出た。

日経ビジネス2018年5月21日号 60~63ページより目次