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──本でも読むか……。

 しかしどんな本を読めばいいのか、それさえ意識できない。

 自分は、いったいなんのために生き残ったのか。自分が死なないで、なぜあの東大出身の男が死に、あの老婆が死んだのだろうか。死の機会というべきか、その指先は平等に自分にも触れようと伸びていたに違いない。それなのにその指先は、自分には触れなかった。それはなぜなのか。

 俺は2回も生き残った。運がいいのだ。ギザ耳の男の言葉が蘇る。なぜ運がいいと断言できるのか。生かされたことに意味が無ければ、運がいいとは言えないだろう。単に生きるという苦しみが長引くだけでは無意味だ。

 あの闇市で会った東大生は、生き残った者の責任と言った。自分にはどんな責任があるのか。どんな責任を果たさねばならないのか。

 何も分からない。何も見えない。こんなに苦しむならいっそのことあの時、敵機に撃たれて死んでいればよかった……。

 本の背表紙の題名を読んでいる目が急に止まった。何かが見えたのだ。背表紙の文字が目から脳に素早く到達し、そこで激しくスパークしたような感覚だ。

『一商人として』

 俊雄の手が本に伸びる。手に取ってみる。

 大きな本ではない。文庫本サイズより縦横とも一回り大きいが、俊雄の手の上にすっぽりと収まる感じが小気味よい。

 大きくて横柄な感じではない。持ち歩いてどこででも読んで欲しいという著者の心遣いが滲み出ている。

「『一商人として』……か。相馬愛蔵」

 もう一度、題名を読み返し、口に出してみる。

 著者の相馬愛蔵の名前は聞いたことがある。新宿で中村屋というお菓子やカリーライスを提供する店を経営している人物だ。

 さらに言えば、戦前、ビハリ・ボースというインド独立運動の志士を匿ったことでも有名だ。

「孔子は『三十にして立つ』と言われたが、私は三十二歳で初めて商売の道に入った……」

 俊雄は書き出しを声に出して読んだ。

 あの隆盛の中村屋の創業者は32歳で初めて商人になったのか。そう思うと、理由なく感動を覚えた。商家に生まれ、当然にして商人になったのではない。自分の意志で商人になったのだ。

──その理由はいったい……。

 俊雄はページを繰る。

「私が三十二歳にもなって商売を志したのは、自分が生まれつき勤め嫌いで、あくまで独立独歩、自由の境涯を求めたことに原因……」

 俊雄は理由は分からないが、心が軽くなっていくのを実感していた。目の前を覆っていた霞か靄が徐々に消えていく気がするのだ。まだ形にはならないが、ぼんやりと太陽が形になり、世界を照らし始める。

「独立独歩か……。商人は独立独歩なのだ」

 相馬愛蔵が勤め嫌いと語っているところにも共感を覚えた。

 俊雄も同じだったからだ。戦前・戦中は20歳になれば死ぬものと思っていた。それは軍隊が決めたものだ。軍隊でも自分の運命を自分で決められなかった。上官の指示通り動き、そして敵に体当たりする。

 そして復員し、元の職場に復職しても上司の言いなりだ。好きでもない「候文」に苦労している。

 学校での軍事教練、軍隊、会社等々。今まで自分の前に現れたステージはどれもこれも自分で自分の運命を決められなかった。他人の考えに左右されるばかりだった。

日経ビジネス2018年5月21日号 60~63ページより目次