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 自分だけではないだろう。同世代の男はみなそう思っていたはずだ。だが全員が腑抜けになっているわけではない。すぐに時代に順応し、気力をみなぎらせている者もいる。

──あのギザ耳の男のように……。

 なぜすぐに時代に適応できないのだろうか。生来の慎重な性格のせいなのだろうか。今の自分の精神状態が、新しく生まれ変わる前の、新しい自分を作る前の苦しみであればいいのだが。

 周囲が騒がしい。一体どこまで歩いて来てしまったのだろうか。いつの間にか北千住の駅を通り抜けてしまったようだ。

 とみゑが商売を始めた場所は、幸いにも空襲の被害が少なかった。しかしこの辺りはかなり焼かれてしまったようだ。小さな工場が密集していたのだろうか。

 人が群がっている。闇市だ。

──人間、何をさておいても食欲を充たさねばならないのだ。

 俊雄は闇市の活気の中に身を置いてみようと思った。今の自分の中に失われたものは生きる気力だ。あの老婆や東京帝国大学出身の仲間が敵機に殺された時、あれほど激しく生きることを誓ったにも拘わらず、生き残ってみれば、皮肉にも生きる意味を失い、同時に気力まで失うことになるとは想像もしなかった。

 贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまでは……。国は人々の欲望を抑圧し、コントロールしてきた。その箍が外れてしまった。人々は自分の欲望を自由に解放するようになった。

 人がひしめいている。俊雄と同じような兵隊服の男たちも多い。

 湯気と匂いに誘われて店を覗く。店と言っても板で囲い、自分の場所を決め、頭上にテント布を張っただけの簡易なものが多い。

 温かい米の握り飯がある。1個10円。焼きたてのコッペパンは1個5円。ふかしたサツマイモが美味しそうな匂いを発散している。5切れ5円。

 急激な物価高騰で、この値段が高いのか安いのか分からない。暴利をむさぼっているのかどうかも不明だ。周囲の店との競争で価格は絶えず変動する。

 うどんが熱々の湯気を立てている。

 「肉入りだよ、肉入りうどんだよ」女店主が声を上げ、客を引く。

 「犬の肉じゃねえだろうな」兵隊服の男が茶化す。

 「何を言うんだね。兵隊さん、犬の肉なんか使わないさ。本物の牛肉だよ。ほっぺたが落ちるぞ」

 「おばちゃん、お前、昨日、犬を探していたじゃないか」

 隣でもつ煮を売っている男が言う。男の前にある大きな鍋では豚や牛の内臓が煮えている。味噌を溶いた濃い茶色のスープがぐつぐつと沸騰している。

 「どんな肉でもいい。腹の皮が背中にくっつきそうなくらい腹ペコだ。うどんをもらおうか」

 兵隊が財布から金を取り出し、女主人に渡す。

 雑炊やおでん、酒、焼酎、ビールもある。酔っぱらって喧嘩をしている者も多い。

日経ビジネス2018年5月14日号 58~61ページより目次