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俊雄は、とみゑと貞夫一家が住む家に居候した。家は、「さかえ屋」から少し離れたところにある古びた一軒家だった。2階建てで店員の保夫の部屋もある。多くの人が、戦災で家を無くし、駅の通路などで雨露や寒さをしのいでいる現状を考えると、贅沢だった。これも北千住の人たちの温情のお蔭であり、とみゑの人徳の結果だった。
「会社が戻ってきて欲しいと言ってるよ。どうするのかい」
とみゑが聞いた。
「うん、少し考える」
俊雄は曖昧に答える。
俊雄が就職した財閥系鉱山会社は徴兵中も給料の6割を支給してくれていた。
本社に取りに行くついでに手続きをすれば、復職ができる。
「ありがたいじゃないか。給料をくれていたんだものね。さすがだね。やはり勤め人の方が安定しているな」
とみゑは、開店準備をしながらぶつぶつと言う。
過去において藤田進という新聞記者の妻だった頃のことでも思い出しているのだろうか。
俊雄は、毎日、忙しく働くとみゑや貞夫を見ていると、商売を手伝うべきではないかと思うことがある。
とみゑも貞夫も、商売をしろとは一言も言わない。せっかく財閥系鉱山会社に就職したのに、それを無にするのはもったいないとでも思っているのだろう。
確かに誰でも就職できる会社ではない。その意味で俊雄は恵まれている。
しかし気力が伴ってこない。軍隊から戻って来て、早や、1週間が経つが体の芯が重い。重力が一段と増したようで何をするにも気力が湧いてこない。頭の中にも靄がかかっているようでどうにもはっきりしない。
「ちょっと出かけて来る」
俊雄はとみゑに言った。
「どこへ行くんだい?」
とみゑが心配そうに訊く。
「ちょっとそこまでだよ」
俊雄は、外に出る。兵隊服のままだ。まだ町には、この姿の男たちが多く歩いている。
地に足がつかないというのはこういう感覚をいうのだろうか。傍から見れば、ふらふらと無目的に歩いているように見えるだろう。実際、その通りだから仕方がない。兵隊から帰ってきた時の高揚感が収まると、どうしたわけか空気の抜けたビニル人形のようになってしまった。
俊雄は、熱狂的な軍国青年ではなかった。どちらかというと戦争も、それを引き起こす国家も嫌悪し、忌避したいと思っていた。それなのに戦争が終わってしまうと、こんなにも、いわゆる腑抜けになってしまうのか。
目を閉じると、真っ暗な瞼の裏側にグラマンの機銃掃射で体を撃ち抜かれ死んだ老婆の悲しそうな表情が浮かぶ。
徴兵されるまでも、兵隊になってからも「死」に直面させられていた。必ず「死」を迎えると信じていた。そこで人生を終える……。だから目標や夢を持ってはいけない。持てば辛くなるだけだ。
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