召集され、特攻部隊に入っていた藤田俊雄は、終戦により、母とみゑが待つ東京に帰ってきた。とみゑは最初の夫に先立たれ、二度目の結婚をして俊雄をもうけるも離婚。苦労を強いられてきた。
戦時中、とみゑは俊雄の異父兄貞夫と浅草で洋品店を営んでいたが、空襲で焼け出され、北千住で細々と商売を再開していた。とみゑも貞夫も俊雄の帰還を喜ぶ。町の人も俊雄を温かく迎えた。
次から次へと商店会の人たちが集まって来る。同業の洋品屋もいる。俊雄は不思議な気持ちになった。なぜこれほど人が集まるのか。
「俊雄、どうした? その変な顔は?」
貞夫が笑う。
「いえね、兄さん、どうしてこんなに人が集まって、お祝いを言ってくれるのか、不思議になったのです」
「ははは」貞夫は、声に出して笑う。
「それは母さんのせいだよ。母さんが、この町の人に愛されているんだ。人徳だよ」
貞夫によると、東京大空襲で命からがら北千住に逃げてきた。この町の人々は親切で人情深い。とみゑや貞夫が、浅草で洋品店を開いていたことを知ると、ここで店を再開すればよいと勧めてくれた。浅草が元通りに復旧するまでは、まだ時間がかかるからだ。商店街の人たちが、この中華そば屋の軒先を借りられるよう一緒に交渉してくれたという。
とみゑは、すっかり北千住が気に入り、ここに店を開くと、毎日、店の周りをきれいに掃除をし、朝から晩まで一生懸命、愛想良く働いているから、いつの間にかファンが増えたのだと言う。
「母さんらしいな」
俊雄は、とみゑが戦災で何もかも失いながら、明るさを失わないで働いている姿に励まされる思いだった。
この明るさが、何度でも逆境から立ち上がらせるのだろう。
とみゑと貞夫は、とりあえず2坪の店で仕事を再開した。店員は保夫を除いて、一旦、郷里に戻ってもらった。いずれ必ず呼び戻すことを約束してのことだった。店員たちは、泣く泣く帰郷したという。
「母さんと一緒に店を大きくして何としてでも店員たちを呼び戻さないといけない」
貞夫の目には強い決意が見えた。
俊雄は、とみゑと貞夫に協力したいと、すぐに口に出せないもどかしさを感じていた。自分が何をしたいのか、まだはっきりと見えない。
4
俊雄は、とみゑと貞夫一家が住む家に居候した。家は、「さかえ屋」から少し離れたところにある古びた一軒家だった。2階建てで店員の保夫の部屋もある。多くの人が、戦災で家を無くし、駅の通路などで雨露や寒さをしのいでいる現状を考えると、贅沢だった。これも北千住の人たちの温情のお蔭であり、とみゑの人徳の結果だった。
「会社が戻ってきて欲しいと言ってるよ。どうするのかい」
とみゑが聞いた。
「うん、少し考える」
俊雄は曖昧に答える。
俊雄が就職した財閥系鉱山会社は徴兵中も給料の6割を支給してくれていた。
本社に取りに行くついでに手続きをすれば、復職ができる。
「ありがたいじゃないか。給料をくれていたんだものね。さすがだね。やはり勤め人の方が安定しているな」
とみゑは、開店準備をしながらぶつぶつと言う。
過去において藤田進という新聞記者の妻だった頃のことでも思い出しているのだろうか。
俊雄は、毎日、忙しく働くとみゑや貞夫を見ていると、商売を手伝うべきではないかと思うことがある。
とみゑも貞夫も、商売をしろとは一言も言わない。せっかく財閥系鉱山会社に就職したのに、それを無にするのはもったいないとでも思っているのだろう。
確かに誰でも就職できる会社ではない。その意味で俊雄は恵まれている。
しかし気力が伴ってこない。軍隊から戻って来て、早や、1週間が経つが体の芯が重い。重力が一段と増したようで何をするにも気力が湧いてこない。頭の中にも靄がかかっているようでどうにもはっきりしない。
「ちょっと出かけて来る」
俊雄はとみゑに言った。
「どこへ行くんだい?」
とみゑが心配そうに訊く。
「ちょっとそこまでだよ」
俊雄は、外に出る。兵隊服のままだ。まだ町には、この姿の男たちが多く歩いている。
地に足がつかないというのはこういう感覚をいうのだろうか。傍から見れば、ふらふらと無目的に歩いているように見えるだろう。実際、その通りだから仕方がない。兵隊から帰ってきた時の高揚感が収まると、どうしたわけか空気の抜けたビニル人形のようになってしまった。
俊雄は、熱狂的な軍国青年ではなかった。どちらかというと戦争も、それを引き起こす国家も嫌悪し、忌避したいと思っていた。それなのに戦争が終わってしまうと、こんなにも、いわゆる腑抜けになってしまうのか。
目を閉じると、真っ暗な瞼の裏側にグラマンの機銃掃射で体を撃ち抜かれ死んだ老婆の悲しそうな表情が浮かぶ。
徴兵されるまでも、兵隊になってからも「死」に直面させられていた。必ず「死」を迎えると信じていた。そこで人生を終える……。だから目標や夢を持ってはいけない。持てば辛くなるだけだ。
自分だけではないだろう。同世代の男はみなそう思っていたはずだ。だが全員が腑抜けになっているわけではない。すぐに時代に順応し、気力をみなぎらせている者もいる。
──あのギザ耳の男のように……。
なぜすぐに時代に適応できないのだろうか。生来の慎重な性格のせいなのだろうか。今の自分の精神状態が、新しく生まれ変わる前の、新しい自分を作る前の苦しみであればいいのだが。
周囲が騒がしい。一体どこまで歩いて来てしまったのだろうか。いつの間にか北千住の駅を通り抜けてしまったようだ。
とみゑが商売を始めた場所は、幸いにも空襲の被害が少なかった。しかしこの辺りはかなり焼かれてしまったようだ。小さな工場が密集していたのだろうか。
人が群がっている。闇市だ。
──人間、何をさておいても食欲を充たさねばならないのだ。
俊雄は闇市の活気の中に身を置いてみようと思った。今の自分の中に失われたものは生きる気力だ。あの老婆や東京帝国大学出身の仲間が敵機に殺された時、あれほど激しく生きることを誓ったにも拘わらず、生き残ってみれば、皮肉にも生きる意味を失い、同時に気力まで失うことになるとは想像もしなかった。
贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまでは……。国は人々の欲望を抑圧し、コントロールしてきた。その箍が外れてしまった。人々は自分の欲望を自由に解放するようになった。
人がひしめいている。俊雄と同じような兵隊服の男たちも多い。
湯気と匂いに誘われて店を覗く。店と言っても板で囲い、自分の場所を決め、頭上にテント布を張っただけの簡易なものが多い。
温かい米の握り飯がある。1個10円。焼きたてのコッペパンは1個5円。ふかしたサツマイモが美味しそうな匂いを発散している。5切れ5円。
急激な物価高騰で、この値段が高いのか安いのか分からない。暴利をむさぼっているのかどうかも不明だ。周囲の店との競争で価格は絶えず変動する。
うどんが熱々の湯気を立てている。
「肉入りだよ、肉入りうどんだよ」女店主が声を上げ、客を引く。
「犬の肉じゃねえだろうな」兵隊服の男が茶化す。
「何を言うんだね。兵隊さん、犬の肉なんか使わないさ。本物の牛肉だよ。ほっぺたが落ちるぞ」
「おばちゃん、お前、昨日、犬を探していたじゃないか」
隣でもつ煮を売っている男が言う。男の前にある大きな鍋では豚や牛の内臓が煮えている。味噌を溶いた濃い茶色のスープがぐつぐつと沸騰している。
「どんな肉でもいい。腹の皮が背中にくっつきそうなくらい腹ペコだ。うどんをもらおうか」
兵隊が財布から金を取り出し、女主人に渡す。
雑炊やおでん、酒、焼酎、ビールもある。酔っぱらって喧嘩をしている者も多い。
──一体どこにこんなにも物資があったのだろうか。
驚くとともに興奮が押し寄せる。
俊雄は、押し合い圧し合いする人の波に流されるように歩いて行く。
鍋、釜、茶碗などの台所用品が並んでいる。
「この鍋、穴が開いてるぞ」
客が鍋の底を叩く。
「見通しがいいだろう」
店主は相手にしない。
片方だけの靴、親指のところに穴が開いた地下足袋……。軍用ヘルメット、飯盒、ゲートルなど兵隊が売ったと思われる物もある。なんと位牌まであるではないか。
「お兄さん、柿はどうかね。3個10円だよ」
老女の店主が俊雄に声をかける。
──柿が出回っているのか。
俊雄は、その鮮やかな色に秋の季節を感じた。
この柿も全て田舎の農家からの闇の買い出しで調達されている。
柿を売っているのが、この店の店主とは限らない。ヤクザなどが取り仕切り、買い出し人を使い、仕入れさせ、配下の者たちにこうして販売させているのかもしれないのだ。
柿3個10円が適正価格かどうかも分からない。なにせ米の公定価格は1升が50銭程度だ。しかしそんな価格で売る者はいない。米は、農家で仕入れ闇市で売ると50倍から、時には80倍、90倍にも跳ね上がる。こんな価格でも家の主婦は競って闇商人から買う。野菜も肉も同じだ。不正と知りながら、闇で出回る米や野菜を食べないと飢え死にしてしまう。俊雄がこうして生きているのも闇米や近所の人たちが届けてくれる野菜や肉のお蔭だ。
商品の価格はあって無いようなものだが、とみゑは絶対に必要以上の利益は上げない商売をしている。仕入れ値を公開してもいいと言うくらい仕入れ値に適正、正直な利益を付加して販売している。さらにこの闇市に出ているような粗悪品ではない。いい物を安く売り、利益は客に取ってもらう。商売人はその分、倹約すればいいという考えだ。
また貧しくてお金が無い人には、「お金ができたら払ってね」とメリヤスの肌着を渡している。弱い人、苦労している人を見ると、助けざるを得ない性格だ。
だから信用があり、客ばかりではなく町の人たちにも愛されている。
俊雄は無性に柿を頬張りたくなり、ポケットを探った。コインを掴み、手を広げると、5円しかない。
「5円しかない。これで2個くれないか」
俊雄は老女の店主に掛け合う。
「1個だけならいいよ」
老女の店主は迷惑そうな顔で無慈悲なことを言う。
「そんなことを言わずに頼むよ。季節を感じたいんだ」
俊雄は頼む。
「僕が5円だしますから、3個売ってください」
隣から声がかかった。俊雄が振り向くと、学生服を着た男が、5円を差し出している。
色白でふっくらとし、切れ長の目の上品な顔立ちの若者だ。
俊雄と同じくらいの年齢か、もしくは少し若いくらいではないだろうか。
ふと、誰かに似ていると思った。
「あっ」
俊雄は声に出した。訓練中に敵機に撃たれて亡くなった東大の哲学科出身の男だ。
「すみません。驚かせましたね」
「いえ、何も。学生服が珍しくて」
「ああ、これですか?」若者は自分の服装を見て言った。「東京帝国大学に通っているんですよ」
やはり東大生だった。亡くなった兵と同じ雰囲気を醸し出していたために、似ていると錯覚したのだ。
「東大ですか。なぜ闇市に?」
「父の命令できたのです。闇市を視察して来いと言われたものですから」
若者はなんのてらいもなく言う。
「お父様の命令ですか?」
俊雄にとっては意表をつく答えだったので若者に興味を持った。
「はい、父は政治家です。それで国民の生活状態に関心があるのでしょう」
若者は笑みを浮かべた。
「早くお金を渡しとくれよ。2人合わせて、10円。喧嘩しないように4個やるよ。ほら」
老女の店主は、俊雄と若者に柿を2個ずつ手渡した。
「ありがとう」
俊雄は礼を言い、柿を受け取った。
若者は、1個の柿を上着の袖で拭うと、いきなり齧りついた。果汁が飛び、若者の口元を濡らした。
「甘いですね。季節を感じます」若者は楽しそうに「あなたはこんな雑踏の中で季節を感じたいとおっしゃっていましたね。その言葉が耳に入った時、変わったことを言う面白い方だなぁと思いました。人が餓死したり、食べ物を奪い合って殺し合いをしたりする時に、季節……。お陰でとてもほっとした気持ちになりました」。
「はあ、そうですかね。いつでも季節は廻りますから」
俊雄は、若者の溌溂とした言い方に圧され気味に答えた。
「日本はどうなると思いますか」
若者は、また柿を齧った。
「私にはわかりません」
俊雄は答えた。
「こんな闇市はすぐに無くなります。日本人は必ず慎み深き文化を取り戻します。それを私は手助けします」
若者は、いささか思い上がった風に言った。
俊雄は、若者の言うことに納得が行かなかった。餓鬼道に落ちたような人々が、文化など求める時代が早晩やって来るとは思えない。
「日本は、戦争に負けましたが、魂までアメリカに蹂躙されたわけではありません。闇市を視察に来てよかったと思います。この人たちの欲望、エネルギーを正しい方向に導く手段を考えます。これで失礼します。お蔭で美味しい柿を味わうことが出来ました。あなたもこの国のために動かれるべきでしょう。それが生き残った者の責任です。死んだ人たちに申し訳ないですからね」
その時、若者の顔と、海を自分の血で真っ赤に染めながら亡くなった東大出身の男の顔が重なって見えた。
俊雄は、若者の言葉に立っていられないほどの衝撃を受けた。
「生き残った者の責任……。責任を果たさねばならないのか」
雑踏の中で、若者の姿を探したが、もうどこにも見えなかった。俊雄の両手には、鮮やかに色づいた2個の柿が握られていた。
(次号に続く)
*この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
日経ビジネス2018年5月14日号 58~61ページより
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