米軍による大空襲は下町を中心に、東京の町を炎に包んだ。出征中の藤田俊雄の異父兄、貞夫が苦労の末に開いた洋品店にも火の手が迫り、母とみゑや貞夫は従業員とともに店を後にする。
最初の夫に先立たれ、2人目の夫との間には幸せな生活を築けなかったとみゑ。商売に励んでも災難が襲う人生を振り返りながら、とみゑは空襲の中を必死に逃げるのだった。
「旧の日光街道に出たみたいだな。白鬚橋の方じゃない」
貞夫が困惑している。道を間違えたようだ。炎を避けながら歩いているから、仕方がない。
「貞夫、このまま千住の方へ行きましょう」
とみゑが励ます。
「ああ、そうしよう。みんなこのまま進むぞ」
浅草の中心部から避難してきた人々の群れで道がごった返している。荷車を引く者、泣き叫ぶ赤ん坊をあやす者、誰の顔にも疲労がべったりと張り付ている。寒い中を歩き詰めだからだ。
後ろを振り返ると、先ほどまで住んでいた浅草の町が赤々と燃えている。悲しいが涙は出ない。涙は心に余裕がある時に流れるのかもしれない。生死が切羽詰まっている時は、涙さえ流れることを忘れてしまうのだろう。
幸い、千住方面には爆撃が届いていない。
──助かるかもしれない。
喜ぶと、急に足が重くなる。もう歩きたくない。しかしもうひと踏ん張りだ。ここで止まったら、焼夷弾の1発も飛んで来るかもしれない。そうなればもう終わりだ。自分を可能な限り励ます。
「千住大橋ですよ、大奥さん。あれを渡れば隅田川を越えて、北千住です」
保夫が弾んだ声を上げた。
千住大橋を越え、北千住の町に入った。
「皆さん、皆さん、温かいすいとんですよ」
とみゑたちは北千住の町に入り、公園のような広場で多くの避難してきた人たちとともにようやくうとうとと眠りについた。目覚めると、北千住の婦人会の女性たちが、早朝にもかかわらず街道沿いに出て温かいすいとんを振る舞ってくれている。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
とみゑは、老婦人から差し出されたすいとんの椀を両手で受け取った。
冷え切った手に一気にぬくもりが伝わった。それは人の情けというぬくもりでもあった。
とみゑの椀の中に紋が広がった。涙の紋だった。命だけでも助かったという安堵の涙が椀に向かって幾滴も零れ落ちた。
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