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 弟であり、俊雄にとっては叔父にあたる武秀は、苦労して商売で成功したため、お金には厳しい。なかなか貸すと承諾してくれない。とみゑは、畳に頭を擦りつけるように低頭した。

──あの時の俊雄の目が忘れられない。今にも武秀に飛びかかりそうだった。思えば悲しい、悔しい思いをさせてしまった。

 幼かった俊雄に心配させてしまった自分はなんと情けない人間なのだろうか。

 その時、ふいにおかしさが込み上げてきた。

 勝一の放蕩を思い出したのだ。あの人は嘘をつき家からお金を持ち出しては酒と女に遣っていた。その血を引いているのに俊雄はどうしてこんなにもバカがつくほど正直者になったのだろうか。

「反面教師?」

 その言葉が浮かんだ瞬間、けらけらと声に出して笑ってしまった。

「大奥さん、大丈夫ですか」

 店員の保夫が心底心配そうに訊く。

 保夫にとってはとみゑは大奥さん、貞夫の妻である菊乃がおかみさんだ。

 命が、炎の中に潰えてしまいそうになっているのにけらけらと笑っているのを見て、おかしくなったのではないかと心配したのだろう。

「大丈夫だよ。保さん。こんな時は笑うしかないだろうよ」

 とみゑは笑顔を保夫に向けた。

「そうですね。私たちも大丈夫ですね」

 保夫は不安そうな顔で言う。

「心配無用さ。またやり直せばいい」

 強がりではない。またやり直すしかないではないか。

 今までは1人だった。1人で生活をしていくしかなかった。子どもを抱えて女が1人で生きていくには商売をするしかない。いったい子持ちの後家をどこが雇ってくれるというのだ。

 乾物や煮豆を売っていた時も、衣料品を売るようになった今も、自分の利益はできるだけ少なくして客に利益があるように努めてきた。

 覚悟を決めて商売の道に入った。

 衣料品で言えば1ダース、12枚の下着を売って2枚の儲け、すなわち「2枚儲け」の薄利の考え方で商売をしてきた。

 実際は、2枚儲けにもならないことが多い。それでも積み重なれば大きくなる。塵も積もれば山となる。一日でも早く商売を軌道に乗せて、子どもたちと一緒に暮らすんだ。そんな思いで働いた。なんとか恥ずかしくないほどの商売の規模になったかと思うと、災難、災難、災難……。全て無くなってしまう。こんなことの繰り返しだ。まるで賽の河原の石積みだ。

 とうとう今では53歳という、おばあちゃんの年齢になってしまった。しかし、まだまだ若い者には負けないだけの気力はある。今度だってなんとしてでも生きる。生き残って店を再建するのだ。今度は、1人じゃない。皆がいる。貞夫もいる。菊乃も保夫もいる。他の店員もいる。菊乃のお腹には生まれて来る孫もいる。1人じゃない。

 とみゑは、前を行く貞夫の背中を見て、遅れないように必死に足を繰り出した。

(次号に続く)

*この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
日経ビジネス2018年4月30日号 56~59ページより目次