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 後ろ髪を引かれるというのはこのことを言うのだろう。喧騒の中で、子どもの泣き声だけがいつまでも耳に残り、付きまとう。

──店はどうなるのだろうか。せっかくうまくいき始めたのに……。焼けてしまうのだろうか。

 とみゑは我が身の不幸を呪う気持ちを禁じ得なかった。

 神田の乾物屋は父の死で失い、その後も商売を始める都度、関東大震災、勝一との離婚など災いが襲って来る。その都度、全てを失って来た。

 勤め人だった藤田進と結婚した時は、安心したものだ。毎月、きちんと給料が入って来る。それを大事に使って、毎日の賄いをし、子どもを育てる。そしてまた翌月の給料を待つ。商家と違って、なんと落ち着いた暮らしなのだろうと嬉しかった。あれが一番幸せな時代だった……。

 それなのにどうして私たちを置いて早く天国に行ってしまったのだろうか。今更、恨みを言っても詮無いが、言いたくなる気持ちを抑えられなくて、空を見上げる。

 進の顔が見えるかと思ったが、空は真っ赤だ。炎が音をあげて吹き上げている。みんな燃えてしまう。家も人も、何もかも。

 熱い。顔が焼けるようだ。貞夫がかけてくれたコートを脱ぎたい。熱がこもるのだ。歩きながら脱ごうとする。

「母さん、ダメだ。川沿いを行くから寒くなる。それなら火の粉を払うことができる」

 貞夫が注意する。

「分かったわ」

 吉野町から橋場通りをひたすら北に上がる。

──商家に生まれたから商売をすることに抵抗はなかった。しかし勤め人より、その暮らしはずっと厳しい。

 卵を売ったことがあった。でも儲けなど全くない。仕方がないから卵が入っていたケースを業者に引き取ってもらってなんとか儲けを確保したものだ。

 食うや食わず……。それでも家族がご飯を食べ、従業員に給料を払い、俊雄を学校に行かせなければならない。

 俊雄はどうしているだろうか。あの子は軍隊に入ってもゴマを擂り、お世辞を言えないから苦労しているのではないだろうか。軍隊は要領を本分とすべし、と言われている。俊雄は、真逆の性格だ。正直、誠実、真っすぐ……。いったい誰に似たのだろうか。

 真夜中に手提げ金庫から金を出して、店員の給料を袋詰めしていた時のことだ。仕入れ代金や給料を支払ったら手元には全く残らない。思わずため息をついた。

 隣で寝ていた俊雄が、「母さん、お金がないの。もう学校に行くのを諦めるかな」と呟いた。

 目は閉じている。寝言かと思ったが、そうではない。

「心配しないでいいよ。お前が学校に行くお金はちゃんと別にとってあるから」

 とみゑは答えながら、心には涙が溢れていた。

 そういえば、どうしてもお金が無くなって弟の緑川武秀に借金を頼みこんだことがあった。

 俊雄が、どうしてもついて行くというので仕方なく連れて行った。──あの子は私を守るつもりだったのだろうか。

日経ビジネス2018年4月30日号 56~59ページより目次