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「どっちへ逃げるんだい」

 とみゑは貞夫に聞く。

 店は、浅草の吉野町(現在の東浅草・今戸辺り)にある。

 貞夫は、瞬時に「白鬚橋を越えて綾瀬の親戚の家に向かって行きましょう」と急ぎだした。

「北へ向かうんだね」

「はい。空襲は浅草の中心部を狙っているようです。北の綾瀬、千住の方はまだ大丈夫かと思います。保夫! お前も荷物を抱えたか」

 貞夫は、店員の森本保夫に言った。

「はい、旦那さん。担ぎました」

 保夫は若い。まだ15歳だ。国民学校高等科を卒業して、すぐに貞夫の洋秀堂で働くようになった。

 保夫も貞夫と同じ行李を担ぐ。貞夫と保夫以外は、全員何も持たず着の身着のままと言ってもいい。とみゑは身重の菊乃を支える。

 とにかく貞夫について行くしかない。

 とみゑは貞夫の後姿に貞夫の父である自分の元夫、藤田進を見ていた。

──進さんを見ているようだわ。逞しい背中で人をぐいぐいと引っ張っていく。新聞記者として正義を追求するためにどんな抵抗があっても我が道を進んでいく。そんな進さんに憧れを抱き、恋をした……。

 多くの人々は逆に逃げている。言問橋や吾妻橋の方向へ行く。緊急事態に人は通いなれた町の中心地へと行くのだろうか。その辺りの方が設備や避難地が充実しているからだろうか。

「隅田川に飛び込むと助かるぞ」

「北へ行くのは止めろ。白鬚橋には東京ガスのタンクがあるぞ。爆発するぞ」

「南の言問橋や吾妻橋から平井や亀戸の方がいい」

 行き交う人々が口々に叫ぶ。炎が迫っている。その中で右往左往している。

 周囲は昼間以上の明るさだ。時々、爆発音がするのは焼夷弾の中に小さな爆弾が仕込んであるからだと言う。そんなものに撃たれたらひとたまりもない。

 貞夫は、錯綜する情報を聞き入れもせず、ひたすら北を目指す。

「菊乃さん、大丈夫かい」

 とみゑは身重の菊乃を気遣う。

「大丈夫です。お母さん」

 菊乃は、気丈に振る舞う。

 着物に焼夷弾の火が移り、火を消そうと転げまわっている女の人がいる。

 子どもの頭髪に火がつき、手で頭をバタバタさせている。恐怖に顔が引きつっている。大声で泣き叫んでいる。

 とみゑが、火を消してやろうと子どもに近づこうとすると、腕を強い力で握られた。

 振り向くと貞夫が、険しい顔で睨んでいる。

「火を消してやらないと……」

 とみゑがその手を振り払おうとする。

「母さん、今は逃げるんだ。母さんがそんなことをするとみんなが逃げ遅れる」

 貞夫が言う通り、とみゑが立ち止まると菊乃も保夫も他の店員たちも全員が立ち止まっている。

「でも……」

「可愛そうだが、あの子の運にかけるしかない。運があれば助かる。私たちだって全員焼け死ぬかもしれないんだ。さあ、行くよ」

 とみゑの腕を掴む貞夫の手に力がこもった。

日経ビジネス2018年4月30日号 56~59ページより目次