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前回までのあらすじ

 財閥系の鉱山会社に就職した藤田俊雄に召集令状が届く。俊雄が配属されたのは特攻部隊だった。戦況は苦しくなる。俊雄は同じ部隊の兵士や道で西瓜を売っていた老婆が、目の前で米軍の攻撃により命を失うという体験を重ねながらも生き延びる。

 一方、母とみゑは、東京・浅草で俊雄の異父兄、貞夫と衣料品店を営みながら、戦争の中を生き抜いていた。

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 戦時下も、俊雄の母とみゑは、貞夫一家と浅草で店を開いていた。店員が10人もいて店は活況を呈していた。

 勝一と離婚して、新たに人生をやり直そうとしていたとみゑにとって浅草の店は、大げさではなく命よりも大事なものだった。

 昭和20年3月10日未明、とみゑは床に入るとたちまち睡魔に襲われ、寝入ってしまった。昼間の疲れを布団のぬくもりが癒してくれる。

 突然、頭が冴え、目が開いた。いつも寝る前に神棚に向かって徴兵されている俊雄の無事を祈るのだが、それを忘れていたのだ。

 とみゑは布団から出た。

「寒い……」

 3月になったにもかかわらず、今年は寒い日が続いている。昨日は雪が降ったほどだ。

 外が明るい。まさか朝になったのではないだろう。そんなに寝たはずはない。

 それに太陽の明るさではない。赤く、濁った血のような明るさだ。

「火事……、火事だ」

 2階の窓を開ける。突然、空襲警報が聞こえて来た。それまでは何も聞こえなかったのに……。

「母さん、空襲だ。空襲だ。逃げるんだ。すぐに着替えて」

 貞夫が部屋に飛び込んで来た。貞夫は1階で眠っていたようだ。

「だって警報もなかったじゃないか」
一度、夜10時30分頃に警報が発令されたが解除されていた。

 外で火事が起きていても、人はなかなか事態の深刻さにすぐに反応できないことが多い。

 蛇に睨まれた蛙という諺があるが、そうした状態になるのだろう。

 ましてや命より大事な店を火に焼かれるままに放置するわけにはいかない。そうした気持ちが迷いになって、いつもなら即座に行動に移すとみゑを緩慢にさせていた。

日経ビジネス2018年4月30日号 56~59ページより目次