俊雄の母、とみゑは老舗の娘に生まれながらも、父を早くに亡くし苦労して育った。最初の夫との間には貞夫など2人の子どもをもうけたが死別。再婚した野添勝一との間に俊雄が生まれたが、ぼんぼん育ちの勝一は仕事に熱が入らず、とみゑが小さな食料品店を切り盛りして、一家を支えていた。
苦労続きの生活の末、とみゑは勝一と離婚し、俊雄と家を出た。

俊雄は、とみゑがいずれ勝一と別れ、川越を離れる覚悟を決めていたと思っていた。
そうなったら、頼りになるのは貞夫だ。だから、貞夫を一人前の商人に育ててもらおうと、自分の店から出し、洋品の商売で成功している弟の武秀に預けたのだ。
貞夫には商才だけでなく、生きるために必要な真面目さ、必死さがある。それさえあれば、必ず武秀のところで育ってくれるだろう、そう考えたに違いない。
とみゑの期待通り貞夫は厳しい武秀の指導にもめげず、無事に勤め上げた。
そして貞夫はとみゑに、一緒にやろうと声をかけたのだ。
「一から出直しするから」
とみゑは俊雄に言った。
決意に満ちた表情で、気圧されるほどの迫力だった。
俊雄は、ただ「はい」と答えた。
この時とみゑは野添の姓を捨て、前夫の藤田姓に変わった。
「あなたは今日から藤田俊雄よ」
とみゑ決然と言った。
貞夫の店は、30坪ほどの小さな2階建て。1階は店舗、2階が住居になっており6畳、4畳半、3畳の部屋があった。
そこにとみゑ、俊雄、貞夫、貞夫の妻の菊乃、店員は10人もいたが、その内住み込み店員が3人。これだけの人間が住むには、広くはない。
2階にも商品が置かれており、寝る場所さえ十分ではなかった。俊雄は3畳の部屋をあてがわれ、勉強に勤しんだ。夜になると、机に向かっている俊雄の隣では住み込みの店員がいびきをかいて寝ていた。
「お前はしっかり勉強をしなさい」
とみゑは言った。
「俊雄の学費は俺が稼ぐから安心しろ」
貞夫が言った。自信に満ちていた。以前、とみゑと一緒に乾物屋や煮豆屋を営んでいた頃とは全く表情が違う。
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