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 実の母をおかみさんと呼ぶ暮らしとはどんなものだろう。心をしめつけられるような辛さではないだろうか。

 ましてや義父の勝一がとみゑを苦しめていれば、その辛さは想像するに余りある。

 貞夫はじっと我慢して勝一の所業を見ていた。ごくたまに憎々し気な視線を向けることはあるが、そんな時でも笑顔を絶やさない。

 俊雄には不思議だった。その笑顔は偽物ではない。腹が立っているにちがいないのに、なぜあのような笑顔を見せることができるのだろうか。

「夢があるからです」

 貞夫は俊雄にぽつりと言ったことがある。

──夢……。

 夢があれば、怒りを忘れることができるのか。

 俊雄は、とみゑと貞夫の窮状を見かねて、商売を手伝うと申し出たことがある。

 しかし2人は、口を揃えて、

「俊雄はしっかりと勉強すればよい」
と言って、俊雄の申し出に取り合わなかった。

 俊雄が勉強をしていると喜ぶのは、勝一も同じだった。

 勝一は、一人息子の俊雄には優しかった。

「どうして母さんに優しくしないのか」

 俊雄が勝一に問う。

 勝一は、これ以上ないほどの悲し気な笑みを浮かべて、

「大人になれば分かる」
というだけだった。

 幼い俊雄には、意味が分かるはずがない。説明しても仕方がない。勝一の悲し気な笑みは、そう饒舌に語っていた。

 自分の中にも勝一の血が流れている。そう思った時、俊雄は心の中で、勝一なるものを否定する思いが強くなっていく。

 とみゑが、陰で勝一の悪口を俊雄に吹き込むわけではない。むしろ「私が悪い」と自分を責めるほどだ。

 しかし、とみゑの悲しさを感じる度に、俊雄は自分の中の勝一を否定した。

 勝一の気持ちが分かるかと問われれば、今でも分からないと答えるだろう。

 分かりたくもない。分かれば、勝一と同じになってしまうという恐れを感じるのだ。

日経ビジネス2018年4月9日号 60~63ページより目次