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 勝一を非難した後や悔しくて涙を流さんばかりになる時は、店の奥に行き、「えいっ」と自分を叱咤する掛け声をかけた。そして笑顔で客に接した。

 それがまた勝一には嫌だった。まるで自分への当てつけのようではないか。

 勝一が遊興に店の金を消費してしまうと、当然、資金繰りが回らなくなる。

 ある夜、仕事を終えたとみゑがきちんと着物を着て薄く化粧を施している。店に出ているときは化粧の匂いが商品に移ると言って、まったく化粧をしないのだが……。

 俊雄は不思議というより、胸騒ぎがしてとみゑの様子を見つめていた。

 化粧の理由を尋ねていいのか、悪いのか、迷っていたのだ。

 しかし俊雄は勇気を奮い起こしてとみゑに

「どこかに行くの」
と訊いた。

 とみゑは化粧の手を止め、俊雄に向き直った。厳しい表情だが、どこか哀しみが漂っていた。きれいだ……と俊雄は思った。とみゑは目鼻立ちがくっきりと整った上品な顔立ちをしていた。それが化粧をしているので一段と美ししく輝いていた。

「私は今からお金を借りに行きます」

 とみゑは俊雄も知っている人物の名前を挙げた。近所に住む資産家だった。俊雄はとみゑの決然と覚悟を決めた迫力に圧され、何も言えない。

「俊雄は何も心配しなくてよろしい。昔から商人はこつこつと利益を蓄えて、それを元手にして商売を拡大していったものです。他人様のお金を当てにしてはいけません。しかしうちには今、お金がありません。その時は借金をせざるを得ません。辛いけれど、借りたお金をきちんと返せば、それもまた信用になります」

 とみゑの目に光るものが見えた。涙だった。

 せっかくの化粧が流れてしまう、と俊雄は的外れなことに気をとられてしまった。

 とみゑは立ち上がり、帯を両手でぽんと叩くと

「さあ、行ってくるわね」
と固い笑みを浮かべて出かけて行った。

 俊雄はその夜、まんじりともせずとみゑを待っていた。

 とみゑは深夜に戻ってきた。そして俊雄の枕元で「はあ」と深いため息をついた。

 次にとみゑが借金に行くことがあれば、絶対に一緒に行き、とみゑを守ると俊雄は心に強く誓った。

 しかし翌朝、とみゑはいつも通り明るく店先に立っていた。

 貞夫は、何も言わない。とみゑと共に商売で苦労しているのだが、勝一が、自分の本当の父ではないため遠慮をしているのだろう。

 実は、貞夫が異父兄であることを知ったのは、俊雄が5歳の時で、貞夫は18歳だった。それまではよく働く真面目な従業員だと思っていた。

 勝一のことを「だんなさん」、とみゑのことを「おかみさん」と呼んでいたのだから、俊雄が思い違いをしたのも仕方がない。

 とみゑには貞夫ともう一人弟の正夫がいるが、正夫は里子に出したままで引き取ってはいない。勝一との生活では、貞夫を引きとるだけで精一杯だったのだろう。

日経ビジネス2018年4月9日号 60~63ページより目次