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 とみゑは、勝一の地元である川越で商売を始める。

 自分で煮豆を作り販売したり、乾物を売ったり……。

 自分で稼ぐ。苦労の末に得たとみゑの生き方だった。

 男に頼って生きることは、女にとって苦労を背負うだけのことになる。その強い思いがとみゑを商売の道へ導いたのだ。

 とみゑには商売の才能があった。やはり商家生まれの遺伝ということだろうか。

 神田の老舗乾物屋で両親が働く姿を見ていたからだろうか。客の気持ちを推し量る才能があった。

 客が甘い豆を求めていたら、少し味付けの薄かった豆の砂糖の量を増やして煮直した。

 出汁昆布が欲しいと言われたが、店頭にない。すると、すぐに仲間の店に店員を遣り、客が帰る前に出汁昆布を手に入れた。

 寒くなると思えば、客に温かい茶を振る舞い、暑くなると思えば、冷たい水あめを出した。

 店を開けている間は、たとえ客がいなくとも決して座ることはない。夜、とみゑのむくんだ足を俊雄がもみほぐす。

「座ればいいのに」と俊雄が言うと、きりりとした表情で、「どこにお客様の眼があるか分からないでしょう。座るような怠け者と見られたらダメなのよ」と叱った。

 朝は、誰よりも早く起き、店先ばかりではなく、いわゆる向こう三軒両隣をきれいに掃き清めた。

「こうすると、店が輝いてみえる。客は知らず知らずにそれに惹きつけられるのだよ」

 勝一は、眠そうな目をしてとみゑが働く様子を眺めていた。

 商売が順調になればなるほど、それに比例して夫婦の気持ちは離れていく。

 店の数は増えた。川越以外にも店を作った。

 とみゑはますます商売に精を出す。

 勝一は、そんなとみゑを恨めし気に見ながら、店の金を持ち出しては、女遊びを繰り返す。

 まるで働き者のとみゑに対する当てつけのようだ。

 自分の満たされない思いを女と酒で紛らわせていたのだ。商売には、まったく関心を示さない。

 勝一は、土地持ちの家の出ではあるが、現金があるわけではない。勝一が遊ぶ原資は、とみゑが商売で稼ぐ金だ。

 当然、とみゑとの諍いが絶えない。

 勝一が店の金を持ち出そうとすると、とみゑが「仕入れの金です」と言って止める。

 しかし勝一はそんなことに耳を貸さない。女遊びより、とみゑを苦しめることが楽しいかのようだ。

 とみゑのすごいところは、客の前では怒りや涙を見せないところだ。

日経ビジネス2018年4月9日号 60~63ページより目次