昭和20年。復員した俊雄は、東京駅で一人の男にタバコをせがまれる。男は俊雄を闇市へと連れて行き、物のない中で、タバコが貴重品であることを教える。男は南方戦線の生き残りだった。
大柄で、器用とはいえない俊雄。俊雄を育てた母、とみゑは俊雄の異父兄、貞夫と商売を営んでいるが、俊雄には外で仕事を探せ、と言う。そんなとみゑの言葉に俊雄は寂しさを覚えていた。
──なぜ母は一緒に商売をやろうと言ってくれないのか。
その理由は父の存在にあるのだろう。
とみゑは俊雄の父、野添勝一とは再婚だった。
2人がいつ、どのように出会ったのかは分からないが、とみゑは前夫、藤田進に早く死なれ、2人の子どもを抱えて苦労していたことは間違いない。
その1人が、今、とみゑと商売をしている貞夫である。
とみゑは神田の老舗乾物屋の娘として何不自由なく暮らしていた。
ところが父が早く亡くなったため家業はみるみる勢いを無くし、ついに破綻する。それまでお嬢様ともてはやされていたのが、たちまち困窮してしまったのだ。
とみゑの母は、生きるためにとみゑを残して再婚してしまった。
やむを得ず、とみゑは親戚の家に預けられ、そこで暮らしていたが、しばらくして母の嫁ぎ先で暮らすようになった。
──いったいとみゑはどのような思いで暮らしたことだろうか。
俊雄は、とみゑが気丈に振る舞う姿を見ては、そのことを想像して涙ぐむことがある。
実母を頼ったものの、そこではとみゑは全くの余計者だ。実母と義父と、義父の子どもたちとの暮らしの中に異物としてのとみゑがいる。
やがてとみゑは恋する年齢へと成長した。
その時、出会ったのが当時新聞記者をしていた藤田進だ。とみゑは進と結婚する。
ようやく幸せを勝ち得たとみゑだったが、進は健康を害し、早くに亡くなる。残されたのはとみゑと2人の息子だった。
とみゑは勝一と出会い、再婚する。
ところが勝一は、庄屋の息子で、いわゆるボンボン育ちで苦労知らずだ。
そんな勝一が結婚したとみゑは6歳も年上で再婚。勝一は初婚。しかも2人の子持ちである。
新婚のうちはいいだろうが、やがて勝一はとみゑに不満を抱くようになる。
俊雄は、勝一の気持ちが分からないでもない。
年上で、苦労してきたとみゑは何かと気が回る。出来すぎる妻をうっとうしく思う夫は多い。
子どもを抱えて苦労している様子を見て可哀想だから結婚してやったのに、と勝一は思っていたかもしれない。その思いはとみゑにとって決して心地がいいものではない。同情が愛に転ずるのは難しい。
とみゑは、勝一の地元である川越で商売を始める。
自分で煮豆を作り販売したり、乾物を売ったり……。
自分で稼ぐ。苦労の末に得たとみゑの生き方だった。
男に頼って生きることは、女にとって苦労を背負うだけのことになる。その強い思いがとみゑを商売の道へ導いたのだ。
とみゑには商売の才能があった。やはり商家生まれの遺伝ということだろうか。
神田の老舗乾物屋で両親が働く姿を見ていたからだろうか。客の気持ちを推し量る才能があった。
客が甘い豆を求めていたら、少し味付けの薄かった豆の砂糖の量を増やして煮直した。
出汁昆布が欲しいと言われたが、店頭にない。すると、すぐに仲間の店に店員を遣り、客が帰る前に出汁昆布を手に入れた。
寒くなると思えば、客に温かい茶を振る舞い、暑くなると思えば、冷たい水あめを出した。
店を開けている間は、たとえ客がいなくとも決して座ることはない。夜、とみゑのむくんだ足を俊雄がもみほぐす。
「座ればいいのに」と俊雄が言うと、きりりとした表情で、「どこにお客様の眼があるか分からないでしょう。座るような怠け者と見られたらダメなのよ」と叱った。
朝は、誰よりも早く起き、店先ばかりではなく、いわゆる向こう三軒両隣をきれいに掃き清めた。
「こうすると、店が輝いてみえる。客は知らず知らずにそれに惹きつけられるのだよ」
勝一は、眠そうな目をしてとみゑが働く様子を眺めていた。
商売が順調になればなるほど、それに比例して夫婦の気持ちは離れていく。
店の数は増えた。川越以外にも店を作った。
とみゑはますます商売に精を出す。
勝一は、そんなとみゑを恨めし気に見ながら、店の金を持ち出しては、女遊びを繰り返す。
まるで働き者のとみゑに対する当てつけのようだ。
自分の満たされない思いを女と酒で紛らわせていたのだ。商売には、まったく関心を示さない。
勝一は、土地持ちの家の出ではあるが、現金があるわけではない。勝一が遊ぶ原資は、とみゑが商売で稼ぐ金だ。
当然、とみゑとの諍いが絶えない。
勝一が店の金を持ち出そうとすると、とみゑが「仕入れの金です」と言って止める。
しかし勝一はそんなことに耳を貸さない。女遊びより、とみゑを苦しめることが楽しいかのようだ。
とみゑのすごいところは、客の前では怒りや涙を見せないところだ。
勝一を非難した後や悔しくて涙を流さんばかりになる時は、店の奥に行き、「えいっ」と自分を叱咤する掛け声をかけた。そして笑顔で客に接した。
それがまた勝一には嫌だった。まるで自分への当てつけのようではないか。
勝一が遊興に店の金を消費してしまうと、当然、資金繰りが回らなくなる。
ある夜、仕事を終えたとみゑがきちんと着物を着て薄く化粧を施している。店に出ているときは化粧の匂いが商品に移ると言って、まったく化粧をしないのだが……。
俊雄は不思議というより、胸騒ぎがしてとみゑの様子を見つめていた。
化粧の理由を尋ねていいのか、悪いのか、迷っていたのだ。
しかし俊雄は勇気を奮い起こしてとみゑに
「どこかに行くの」
と訊いた。
とみゑは化粧の手を止め、俊雄に向き直った。厳しい表情だが、どこか哀しみが漂っていた。きれいだ……と俊雄は思った。とみゑは目鼻立ちがくっきりと整った上品な顔立ちをしていた。それが化粧をしているので一段と美ししく輝いていた。
「私は今からお金を借りに行きます」
とみゑは俊雄も知っている人物の名前を挙げた。近所に住む資産家だった。俊雄はとみゑの決然と覚悟を決めた迫力に圧され、何も言えない。
「俊雄は何も心配しなくてよろしい。昔から商人はこつこつと利益を蓄えて、それを元手にして商売を拡大していったものです。他人様のお金を当てにしてはいけません。しかしうちには今、お金がありません。その時は借金をせざるを得ません。辛いけれど、借りたお金をきちんと返せば、それもまた信用になります」
とみゑの目に光るものが見えた。涙だった。
せっかくの化粧が流れてしまう、と俊雄は的外れなことに気をとられてしまった。
とみゑは立ち上がり、帯を両手でぽんと叩くと
「さあ、行ってくるわね」
と固い笑みを浮かべて出かけて行った。
俊雄はその夜、まんじりともせずとみゑを待っていた。
とみゑは深夜に戻ってきた。そして俊雄の枕元で「はあ」と深いため息をついた。
次にとみゑが借金に行くことがあれば、絶対に一緒に行き、とみゑを守ると俊雄は心に強く誓った。
しかし翌朝、とみゑはいつも通り明るく店先に立っていた。
貞夫は、何も言わない。とみゑと共に商売で苦労しているのだが、勝一が、自分の本当の父ではないため遠慮をしているのだろう。
実は、貞夫が異父兄であることを知ったのは、俊雄が5歳の時で、貞夫は18歳だった。それまではよく働く真面目な従業員だと思っていた。
勝一のことを「だんなさん」、とみゑのことを「おかみさん」と呼んでいたのだから、俊雄が思い違いをしたのも仕方がない。
とみゑには貞夫ともう一人弟の正夫がいるが、正夫は里子に出したままで引き取ってはいない。勝一との生活では、貞夫を引きとるだけで精一杯だったのだろう。
実の母をおかみさんと呼ぶ暮らしとはどんなものだろう。心をしめつけられるような辛さではないだろうか。
ましてや義父の勝一がとみゑを苦しめていれば、その辛さは想像するに余りある。
貞夫はじっと我慢して勝一の所業を見ていた。ごくたまに憎々し気な視線を向けることはあるが、そんな時でも笑顔を絶やさない。
俊雄には不思議だった。その笑顔は偽物ではない。腹が立っているにちがいないのに、なぜあのような笑顔を見せることができるのだろうか。
「夢があるからです」
貞夫は俊雄にぽつりと言ったことがある。
──夢……。
夢があれば、怒りを忘れることができるのか。
俊雄は、とみゑと貞夫の窮状を見かねて、商売を手伝うと申し出たことがある。
しかし2人は、口を揃えて、
「俊雄はしっかりと勉強すればよい」
と言って、俊雄の申し出に取り合わなかった。
俊雄が勉強をしていると喜ぶのは、勝一も同じだった。
勝一は、一人息子の俊雄には優しかった。
「どうして母さんに優しくしないのか」
俊雄が勝一に問う。
勝一は、これ以上ないほどの悲し気な笑みを浮かべて、
「大人になれば分かる」
というだけだった。
幼い俊雄には、意味が分かるはずがない。説明しても仕方がない。勝一の悲し気な笑みは、そう饒舌に語っていた。
自分の中にも勝一の血が流れている。そう思った時、俊雄は心の中で、勝一なるものを否定する思いが強くなっていく。
とみゑが、陰で勝一の悪口を俊雄に吹き込むわけではない。むしろ「私が悪い」と自分を責めるほどだ。
しかし、とみゑの悲しさを感じる度に、俊雄は自分の中の勝一を否定した。
勝一の気持ちが分かるかと問われれば、今でも分からないと答えるだろう。
分かりたくもない。分かれば、勝一と同じになってしまうという恐れを感じるのだ。
俊雄は、体つき、顔つきが勝一に似ている。だから勝一になってしまうのではないか。自分も堅実ではなく、ふらふらと女と酒で身を持ち崩すのではないかと懸念が募るのを抑えられない。
一方、勝一の思いが全く分からないのかと問われれば、少しだけ分かると言わざるを得ない。
勝一は寂しかったのだ。よくできる妻であるとみゑには何をやってもかなわない。
自分のいる場所が無い。それならば居場所を外に見つけるしかないではないか。
勝一が、俊雄に言いたかったことはそういうことだろう。
しかし情けない。もし居場所がないなら、安易に女と酒に逃げず自分で努力したらどうなのか。自分は絶対に勝一にはならない。俊雄は絶えず勝一を否定しながら成長した。
3
とみゑと勝一は、俊雄が14歳の時に離婚した。
とみゑは、店はすべて勝一に譲り、自分は出ていくと言った。あれほど精を出して切り盛りしていたのに、何の未練も見せない。せっかく築いた店だからと言って、惜しんでいては別れることができなくなる。
勝一は、俊雄に一緒に残るかと聞いた。
「嫌です」
俊雄は明確に答えた。母、とみゑを選んだのだ。我ながら語気の強さにたじろぐ気がした。
「そうか」
勝一はあっさりと納得した。こだわりの無さは、勝一の良さでもあった。
しかし寂しさはひとしおではなさそうに見えた。別れる時、俊雄は、少しだけ涙ぐんだ。
もう二度と会わない。勝一の背中に呟いた。その時、勝一がつけていたポマードの匂いがふいに鼻孔を刺激した。
甘く濃厚な匂いだった。
その後、勝一は再婚したと聞く。今では音信不通と言ってよい。
俊雄自身は必死で勝一を忘れようとした。忘れることがとみゑへ孝を尽くすことになる。
青年の潔癖性に由来するのかもしれないが、自分の体の中にある女にだらしない、浪費家の血を否定することは、とみゑと一緒に生きると決めた自分の責務だと思った。
勝一と別れたとみゑは、俊雄を連れて貞夫が営む浅草の洋品店に身を寄せた。貞夫は、とみゑの商売を手伝っていたが、川越の店を離れ、浅草で働くようになっていたのだ
勤務先は、とみゑの弟である緑川武秀が経営する洋秀堂だ。
武秀は、父の死で実家が没落した後、とみゑと同様に苦労して育った。
早くから商売の才能を発揮し、浅草の足袋屋を皮切りに、洋服や洋品を扱う店を開いて、独立した。店名は、洋品の「洋」と武秀の「秀」とを合わせ、名付けたものだ。
独立してますます生来の商才に磨きがかかり、店は大きくなった。そして浅草店以外にも数店を経営するまでになっていた。
貞夫はそんな武秀のもとで働き、のれん分けをしてもらえるようになったのだった。
(次号に続く)
*この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
日経ビジネス2018年4月9日号 60~63ページより
目次
Powered by リゾーム?