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 「これがあればすいとんを腹いっぱい食うことができる。人を殺しても食いもんを手に入れるような奴ばかりの時に、あんたみたいに軽々しくタバコをやったらあかん。1本吸ったから、残りは返す。これは金以上のもんや」

 男は、口角を引き上げた歪んだ笑みを浮かべて、俊雄に朝日を返した。

 「受け取れません。一度、あなたに差し上げたものですから」

 俊雄は拒否した。

 「だから変わってると言うんや。返させてくれ」

 男は頭を下げた。

 俊雄は微笑した。

 「あなたも変わっていますね」

 タバコを受け取りポケットに戻した。

 「ははは、俺か。俺は変わってると言うよりも運がええんや」

 「運? ですか」

 「徴兵されてな。すぐに南方に送られる予定やった。しかしたまたま上官に用事を言いつけられているうちに乗るはずやった輸送船が出てしもた。乗り遅れたわけや。しもたなと思ったが、その輸送船は敵に沈められて、みんな死んでしもた。その後で俺が乗った輸送船は無事にフィリピンのミンダナオ島に着いた。しかし、地獄やった。死にに行ったようなもんやった。もうあかんと思うた」

 男は、顔をこちらに向けた。

 「これ見てみろや」

 右耳を指さした。

 その耳は、上半分がちぎれたように無くなっている。肉が赤黒く醜く盛り上がり、見るからに異様だ。

 「ああ……」

 俊雄は、その無残な形になんと言っていいか分からず口ごもった。それまで男は顔の左側面しか見せていなかったため気付かなかったのだ。

 「ジャングルを逃げている時に敵に撃たれてな。弾が顔をかすめて耳に当たった。俺は、気絶してその場に倒れたんや。仲間は俺を置き去りにしてその場を去った。俺が死んだと思ったんやな。気づいたら、俺は捕虜になっていたんや。そのお蔭で、生き延びた。仲間は、玉砕や。天皇陛下バンザイ! や」

 「2回も助かったのですね」

 「ああ、俺は2回、生き残った。死んでたまるかと念じとったからな。命は大事にせなあかん。あんたは内地勤務か」

 男は聞いた。

 「陸軍船舶特別幹部候補生でした」

 俊雄は答えた。

 「なんや、特攻か」

日経ビジネス2018年4月2日号 82~85ページより目次