今から30年前、マツダはバブル景気を背景に、「B-10計画」と呼ぶ販売拡大策によって国内シェアの倍増を目指した。3つあった販売チャネルを、当時のトヨタ並みの5チャネル体制にしようというものだ。

 それには車種を爆発的に増加させねばならない。場当たり的な開発案が乱発され、エンジニアである金井氏は振り回された。スタッフを率いて努力した仕事がムダになる手戻りも度々味わったという。やりきれない思いから考えた様々な改善策は、後に彼が推進する業務プロセスの変革「モノ造り革新」のひな型になっていく。

金井 誠太(かない・せいた)
(写真=橋本 真宏)
マツダ会長。1950年1月17日生まれ、広島県出身。74年、東京工業大学工学部を卒業、東洋工業(現マツダ)入社。サスペンションなどシャシー(足回り)のエンジニアとして社歴を重ねる。2002年、主査を務めた初代「アテンザ」は世界的な評価を受けた。06年から研究開発担当の役員として、マツダの全車種を刷新する「一括企画」を主導。専務、副社長、副会長を経て、14年から現職。

 マツダが販売チャネルを5つに増やし、拡大路線にかじを切るころ、私は先行企画部門に潜り込んで、これから出るクルマの、足回りの企画のお手伝いを始めました。1987年のことです。一気に車種を増やすために、ユーノスコスモ、センティア、クロノスとその兄弟車、そして、ユーノス800などの開発がさみだれで動いていました。

 印象に残っている仕事ですか、そうですね、ユーノス800の車両設計リーダー時代の経験ですかね。