存亡の危機を何度も乗り越えてきた
●住友金属鉱山の歴史
1590年蘇我理右衛門が南蛮吹きという銅製錬の技術を開発。住友グループの起こり
1691年別子銅山の稼働。長年の採掘ではげ山に(下図)
→明治時代から植林を始める
1893年別子銅山から発生するばい煙により、新居浜で煙害が発生
1905年新居浜沖の四阪島に銅製錬所を新設するも煙害は続く
→中和技術を確立し、煙害問題を解決
39年電気ニッケルの生産開始
80~90年代オフィスコンビニ事業に参入するなど多角化を進める
99年全額出資の子会社(茨城県東海村)で原子力の臨界事故を起こし、作業員が被曝し死亡。東海村の住民などに多額の補償金を支払う
→非鉄ビジネスへの本業回帰、事業の選択と集中へ
2002年資源メジャーからの鉱石供給が突然止まる
→鉱山の権益獲得を加速
03年トヨタ自動車のハイブリッド車「プリウス」用ニッケル水素電池向け材料の供給始まる
05年フィリピンで独自技術を使ったニッケル中間材の商業生産が始まる
12年米テスラの電気自動車用リチウムイオン電池向け材料の供給始まる
18年正極材の生産能力を17年に比べて約2.5倍に高める
(写真=住友金属鉱山提供)
(写真=住友金属鉱山提供)
(写真=住友金属鉱山提供)
(写真=住友金属鉱山提供)

「会社がつぶれる」

 99年9月30日に起きた大惨事は、同社に大きな打撃となった。社会的な信用を失ったばかりではない。核燃料製造事業とは無縁の社員が営業系か技術系かを問わず応援に駆り出され、体調を崩す社員もおり、全社的に事業運営に支障をきたしていた。数多くの事業が滞り、翌年の予算を作ることもできないという状態が続いた。事故が起きた99年度の連結業績は事故関連の補償で約150億円の特別損失を計上。47億円の黒字を確保したものの、「会社がつぶれる」と考えて会社を去った社員も少なくなかったという。

 事故の直接的な原因は、核燃料の製造現場で作業の手間を省き、結果的に安全対策が不十分になったことだ。しかし、そうした事態を招いた背景には、身の丈以上の会社の多角化があった。

 かつて住友金属鉱山の収益の柱は、祖業である銅の製錬事業だった。海外から安い銅鉱石を買ってきて、それを製錬して銅製品として高値で販売してきた。だが、80年代になると、プラザ合意以降の円高によってドル建ての製錬マージンが急速に減少した。多角化にまい進し始めたのはそこからだ。

 臨界事故が起きた99年までに、宝飾品の小売事業や住宅事業、「キンコーズ」で知られる事務サポート事業など、多くの子会社で多角化を推進していた。以前から手掛けてきた核燃料の製造受託も、多角化の一環として強化していた。

 多角化は、十分な経営資源があって推進されたものではなかった。どの事業も慢性的に人手が不足し、経営陣の目も現場に行き届かない。安全教育もおろそかになった。JCOの臨界事故は、起こるべくして起きたとも言えた。

 この事故は、名門といわれた住友金属鉱山にとって、業績の悪化以上に自らの存在意義を問われる衝撃的なものとなった。当時、人事部に所属していた浅井宏行常務執行役員は、作業員の病院搬送の付き添いや地域住民への補償などのために現地を駆けずり回った。住民に頭を下げる日々が続き、「東京に帰ってくると街を歩く全ての人々から責められている気がして、頭がおかしくなりそうだった」と振り返る。

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