なぜリーマンショックは起きたか

 大きな要因は2000年代初頭から米国で増えたサブプライムローン。返済能力の低い低所得者向け住宅融資のことだ。金融機関はこうしたローン債権を束ねて証券化し、積極的に投資家に販売した。

 歯車が狂い始めたのは06年ごろ。景気拡大に伴う金利上昇でローン返済負担が大きくなり、貸し倒れが目立ち始める。これまで上昇していた住宅価格も下落に転じたことで、損失回避のためサブプライムローン証券化商品の保有者が一斉に手放し始めた。

 そんな中、仏金融大手BNPパリバが07年8月、系列ファンドの新規契約・解約の停止を発表。「パリバショック」が発生する。そして08年3月、サブプライム投資で大きな損失を出した米国第5位の投資銀行、ベアー・スターンズがJPモルガン・チェースに身売りされる。

 次の焦点となったのは同4位のリーマン・ブラザーズ。英バークレイズによる救済が模索されたが実現せず、公的資本の注入も見送られ、9月15日に破綻した。金融機関の連鎖破綻が起こるとの不安から市場の流動性は枯渇、資本市場は機能不全に陥った。

 米政府は事態収拾のため議会を説得し7000億ドル(約77兆円)の公的資金で金融機関を救済しようとしたが、世論は反発。いったんは議会が救済案を否決するなど混乱した。その後、米国で金融規制が強化されたほか、世界的な大規模金融緩和にもつながった。

人材流動化でITと金融が融合

 世界に目をやれば、金融機関のビジネスモデルは急速な変化を迫られた。金融機関に対する規制が強まる一方、落ち込んだ実体経済を立て直すべく各国の中央銀行が金融緩和に動いた結果、低金利が常態化して収益を圧迫。運用は手詰まりとなった。

 そこで台頭してきたものの一つがオルタナティブ投資。ヘルスケアやAI(人工知能)、インフラなど、専門領域に特化した小規模な投資ファンドやPE(プライベートエクイティ)ファンドが次々と立ち上がり、規制の厳しい資本市場を介さずに企業に資金を投じる動きが目立ってきた。

 業界内の構造だけではない。世界では金融業界そのものの立ち位置にも大きな変化が押し寄せた。

 「金融だけではやっていけないという悲観論がアカデミックの世界にも広がっていた」。リーマンショック直後の米国を振り返るのはマネーフォワード取締役兼Fintech研究所長の瀧俊雄だ。

 当時、野村資本市場研究所で金融機関のビジネスモデルについて研究していた瀧は、米スタンフォード大学経営大学院に留学していた。そこで目の当たりにしたのは、同級生たちが大学院でMBAコースを履修するだけではなく、工学や再生エネルギーなど別の専門分野でも学位を取ろうと必死に勉強する姿だった。かつて大手投資銀行などが集めていた優秀な人材は、IT企業をはじめとする先端分野に流れていた。

 それは一過性の出来事ではなかった。

 「『ディテンション(引き留め)』という単語が合言葉のようになっていた」。みずほフィナンシャルグループ執行役員の宇田真也は話す。17年秋、米金融機関の人事戦略を学ぼうとニューヨークを訪れた宇田に対し、現地幹部が繰り返したのがその言葉だった。「ハーバードなど名門大学を卒業する学生は、みんな(シリコンバレーのある)西海岸に行きたがる。彼らをいかに(ウォール街のある)東海岸に引き留めるかに心を砕いている、というんです」

 地殻変動の結果、新たな潮流として台頭したのが、ITと金融を組み合わせた「フィンテック」だ。

 リーマンショックで規制が厳しくなった米国では「貸し渋り」が広がった。影響を一番に受けたのが、若年層や低所得者、中小企業経営者など、比較的資金の少ない人々だ。既存金融機関が提供するサービスへの不満に対応する金融サービスとして産声を上げたのがフィンテックだった。