明治時代に多くの外貨を稼ぎ、近代化を支えたカイコが、新たな「糸」を生み出し始めた。遺伝子を組み換えると、「繭」にエイズウイルスなどを早期発見できる抗体が組み込まれる。オーダーメード医療にも道を開く新技術を生かすには、製薬会社の協力が欠かせない。
(日経ビジネス2018年9月17日号より転載)
「いよいよ動き始めたか」。8月31日、ある発表に素材業界はざわついた。日東紡が、遺伝子組み換えカイコを扱うスタートアップのリムコ(沖縄県うるま市)の第三者割当増資を引き受け、33.4%を保有する株主となったのだ。
1898年に郡山絹糸紡績として事業を始め、明治期の殖産興業を支えた日東紡。創業120年を機に、祖業の絹糸業に回帰するわけではない。狙いはカイコが吐き出すタンパク質だ。特殊な繭を作らせれば、医薬品に使う「抗体」の製造方法が一変する。
リムコは沖縄県に、遺伝子組み換えカイコを年10万匹生産できる設備を保有。繭から医薬品原料を抽出する技術で、世界の先頭を走っていると目される企業だ。日東紡子会社、ニットーボーメディカルの須釜裕司執行役員は「リムコを仲間にすることで、我々には大きな武器ができる」と話す。
先進的な取り組みがロシア西部のニジニ・ノブゴロド州で進められている。現地の製薬メーカーが開発する、エイズウイルス(HIV)の早期発見につながる診断キット。原料はリムコがカイコの繭から有効成分を抽出した抗体だ。
HIVは体内に入ってもすぐに発症せず、数年から約10年の無症候期が続く。この間にウイルスは増殖し、徐々に体の免疫機能を壊していく。免疫力が低下するとカビや細菌への抵抗力が弱まり、人間は感染症に苦しむようになる。早期発見がエイズへの対応のカギだ。
求められているのは、ウイルスの動きを感知する診断薬だ。わずかな「抗原」にも反応する「抗体」があれば、体調の変化を待たなくても、体内へのウイルスの侵入が分かる。
抗体の作り方で一般的なのは、マウスの体内で有用な細胞を増殖させる手法。ただ、マウスは世話に手間がかかり、生産効率が悪い。動物愛護の観点からも問題がある。ハムスター由来の細胞に遺伝子を組み込んで培養タンクで増やす手法もあるが、先行投資が必要で、コストが高くつく。
新産業の創出と地域振興につなげる
●国が描く「スマート養蚕」の一例
ここに目をつけたのがリムコだった。カイコの「タンパク質生産機能」は、生産性や純度で従来の方法を凌駕する。これまでは様子見する企業が多かったが、日東紡の出資は追い風となる。リムコの小河晋悟社長は「遺伝子組み換えカイコを実際に活用する流れが加速する」と期待を込める。
遺伝子組み換えで養蚕業復活
カイコは幼虫時にシルクの糸を吐いて繭を作る昆虫だ。野生のクワコが「品種改良」され、長い年月をかけて今の姿になった。色は白く、羽をバタつかせるが飛ぶことはできない。糸を作り出す「絹糸腺」が肥大化し、自分の体重の重さで木にしがみつくこともできない。
日本では江戸時代、学のある人たちの間で養蚕業が広がったようだ。日本の養蚕技術は本となり、来日したドイツ人医師シーボルトによって欧州にも持ち帰られた。この土壌のうえで、明治政府が官営の富岡製糸場を作るなどし、外貨獲得の手段として養蚕業を推奨した。
ただ、1930年代以降にナイロンなどの化学繊維が普及。中国などから安価な絹製品が輸入されるようになったことも影響し、一時は220万戸あった国内の養蚕農家は500戸以下へと激減した。
青息吐息だった日本の養蚕業を激変させたのが、遺伝子組み換えカイコの生産技術だ。2000年、農林水産省蚕糸・昆虫農業技術研究所(現農業・食品産業技術総合研究機構=農研機構)が、卵の段階で遺伝子を改変して、抗体を含んだ糸を吐くカイコを作り出した。将来の生殖器となる部分を狙って遺伝子を注入するのがポイント。成功すれば、遺伝子は子孫へと伝わり、組み換えカイコは代々、人間が望んだ性質の糸を吐き続けることになる。
カイコはなぜ、抗体の抽出源にふさわしいのか。農研機構新産業開拓研究領域の門野敬子領域長は、大きく4つの理由を指摘する。
1つ目は安価な飼料で1m2当たり1000匹規模の高密度飼育が可能なこと。生産性が高く、安定供給できる。次に、飛ぶ能力が無いため管理が容易な点。組み換えた遺伝子が想定外に拡散する可能性が低い。3つ目は成長が早いこと。カイコの一生は1カ月半ほどで、メスは300~500個の卵を産む。最後は、長い歴史の中で、人間に感染する病気が確認されていない点だ。
繭の生産量で全国の4割弱を占める群馬県。前橋市に拠点を構える免疫生物研究所の冨田正浩取締役・遺伝子組換えカイコ事業部長はこう話す。「カイコからできる抗体は不純物が少なく、ウイルスへの働きかけが強い」
免疫生物研が見据えるのは、ロシア企業が手掛ける診断キットのさらに先だ。16年にスタートアップのCURED(横浜市)と提携。HIVを破壊することで、根本からエイズを治療する医薬品の開発を目指している。
カイコは抗体を含むタンパク質の「生産工場」としての機能が優れている
●カイコの特長
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カイコ |
哺乳類細胞 |
カイコの特徴 |
スピード |
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哺乳類細胞の160万倍のタンパク質合成速度を持つ。小規模生産にも適している。 |
コスト |
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設備への投資が小さく、生産コストが低い。バイオ医薬品単価の大幅な削減が可能。 |
品質 |
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高分子タンパク質の生産が可能。遺伝子組み換えによるヒト型糖鎖修飾が可能。 |
純度 |
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繭や絹糸腺からの抽出が容易で、不純物の混入が少ない。 |
安全性 |
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人間に感染するウイルスの混入は、今までの歴史で確認されていない。 |
※注:農水省の資料を基に作成、哺乳類細胞は培養タンクで増殖させる
「オーダーメード医療」にも
エイズは患者ごとに病状が異なるため「オーダーメード型」の治療薬を作れれば理想だ。カイコは1匹ずつ、吐き出す糸を変えることができる。免疫生物研が狙うのは大量供給だが、「融通が利きやすい」というのが関係者のカイコ評だ。遺伝子に傷がついて異常な細胞が広がるがんの治療にも、カイコの持つ柔軟性は優位に働きそうだ。
農研機構も新技術の開発に躍起だ。例えば「クモ糸カイコ」。オニグモの遺伝子を注入したカイコで、吐く糸は通常の糸よりも5割ほど強く、伸縮性が高い。「さらに切れにくく改良し、細さと強さが求められる手術用縫合糸への活用を目指す」(門野領域長)。糸に抗体を組み込めば、体内で染み出す医薬品の開発につながるかもしれない。
関係者の多くは「技術は確立している」と口をそろえる。ただ現時点で、医療への実用例は少ない。製品化に至っているのは日東紡グループの骨粗しょう症の診断薬、免疫生物研のアルツハイマーの検査キットなど数えるほどだ。
背景には、大手製薬会社の協力が得にくいという事情がある。製薬各社は培養タンクなど従来手法に巨費を投じている。斬新な技術の登場は既存の手法の陳腐化を招く。「リスクを取って新たな手法に取り組むモチベーションは高くない」と関係者は顔を曇らせる。
今年3月には、アステラス製薬と免疫生物研のプロジェクトが打ち切られた。カイコを使った止血用タンパク質「フィブリノゲン」の共同研究で、カイコの活用に風穴を開けると業界の関心は高まっていたが、「生産量が計画に満たなかった」(免疫生物研)のだという。
とはいえ、カイコが吐く糸の可能性は陰らない。群馬県の農家では蛍光シルクを生む遺伝子組み換えカイコの飼育が始まった。狙うは「光る服」や「光る壁紙」だ。化粧品としても繭から精製したコラーゲン成分の活用が広がってきた。そして今、「本命」とされる医療への応用が始まろうとしている。
かつて多くの外貨を稼ぎ、日本の近代化を支えたカイコ。国内で新たな産業を生み出すには、世界に先駆けて成功例を作ることが重要だ。
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