2015年3月31日に公開した記事を再掲載しました。

 社会と隔絶された「塀の中」で、鈴木宗男元衆院議員(67)は”あの日”を迎えた。場所は栃木県にある官民協働運営の刑務所・喜連川社会復帰促進センター。鈴木氏が津波に飲まれる東北のテレビ放送を見たのは、震災が起きて3日後のことだった。逃げも隠れもできない状況下、原発事故後の放射線放出にもおびえた。かつては自民党に籍を置き、原発推進の立場であった鈴木氏だが、収監中に「脱原発」に考えを切り替えた。当時、刑務所で付けていた「獄中日記」を見せてもらいながら、4年前をリアルに回顧する。

鈴木氏が東日本大震災の当日に綴った獄中日記(撮影:大高和康、以下同)

2011年3月11日は鈴木さんが収監されてから約4カ月(あっせん収賄罪等で懲役2年の実刑判決を受け2010年12月6日に収監、2011年12月6日に仮釈放)が経っていました。地震が起きた2時46分、何をされていたのですか。

「当時が生々しく思い出される」と語る鈴木宗男氏

鈴木氏:忘れもしません。私は毎日ノートに日記を付けていたんですが、ほら、ここを見てください。2011年3月11日のあの瞬間を赤いボールペンで記しています。地震はうちの秘書との面会が終わって、1時間ほど後に起きました。

 私は収監中、お年寄りの受刑者の介護をする係でした。お年寄りを風呂に入れている時、グラッと揺れた。お風呂の湯が上下に大きく波打って、浴槽から湯が飛び出しました。すぐに刑務官がやってきて、「部屋に戻れ」と命令されました。後で確認したところ喜連川の震度は6弱でした。これだけの揺れを人生で感じたことがありませんでしたので、とにかく驚きました。先ほど別れた秘書が、無事なのか心配になりました。

刑務所の中では情報の取得が制限されますよね。

鈴木氏:地震後の数時間はどこで何があったのかは分かりませんでした。1時間ほど余震におびえていたのを記憶しています。午後7時のラジオニュースで、東北沿岸が大津波によって壊滅したと聞いて驚きました。しかし、映像がないものですから、「甚大な被害だ」ということは分かっていても、ピンとこない。テレビの生放送ニュースで津波映像を見たのは3日後の3月14日。リアルタイムの映像を見たのは後にも先にも、この時だけです。

 14日の日記を見てみましょうか。

「昼食配当の際、午後も免業(注:刑務作業の免除)と言われる。正午、工場のTVで初めて11日の地震の映像を見た(フジテレビのめざましテレビの録画)。奥尻島の津波を思い出す画面であった。自然の巨大エネルギーの前に人間の力は小さく、弱いものである。居室に戻ると、NHKが入っているから見ろ、と刑務官から言われスイッチを入れる。リアルタイムでの地震報道。やっぱり直接見るニュースに納得である。11日からやって欲しかったものだ。緊急時の情報が一番の精神安定剤。もっと弾力的に(対応して欲しい)」

 平時、刑務所で見せてもらえるテレビ番組は録画だけです。しかし14日は7時間も、リアルタイムのテレビが見られました。その映像を見て愕然としましたよ。車に乗ったまま流されていく人や、津波に飲まれていく人、親子が引き離されていく様子…。言葉が出なかったです。

家族や支援者のことが気になったのではないですか。

鈴木氏:もちろんです。私の親父の故郷は宮城県です。とにかく宮城の親戚のことが心配でした。3月11日の夕食後、全受刑者に向けて「緊急発信を許す」と言われました。つまり家族に安否を知らせる手紙を書いてよし、ということです。私は「こちらは心配ない。そちらは大丈夫か」と手紙をしたためました。

3月12日の日記

書簡で思い知った郵便網のスゴさ

刑務官にとっても想定外の地震だっただろうし、受刑者にどう対応すべきか困ったでしょうね。それでも、受刑者が許されたのは手紙だけなんですね。電話はさすがにダメだった。

鈴木氏:いやいや、手紙を侮ってはいけません。驚いたのは、女房に宛てて出した手紙が、翌12日には都内の自宅に届いたんです。その手紙を受け取った女房が今度は「無事だ」との返事をすぐに出してくれました。それも次の日に喜連川に届きました。震災直後のわずか2日間で、手紙だけでやりとりができたのです。

 それに加えて12日には「皆元気、大丈夫」と電報が届いていた。私は心底ホッとして涙が出てきました。同時に、こんな状況でも迅速に配達できる日本郵便はスゴいなあと、日本の郵便網はスゴいなあと感心しましたよ。15日の日記に「郵便ネットワークは国民の財産で、守っていかねばならない。こういう非常時を考えた時、郵便局の公共性を高く評価しなければならない」と書いてありますね。

刑務所生活での変化はなかったのですか。

 まず夕食の時間が早くなりました。普通は配膳が4時半ごろなのですが、30分繰り上がった。それは受刑者を安心させるためでした。所内はとても落ち着いていたのが印象的です。受刑者同士の私語は厳禁で、地震の感想を述べ合うなんてことはないですが、粛々としていて混乱はなかったです。

政治家として何もできないもどかしさはありましたか。

鈴木氏:私が収容されていた喜連川社会復帰促進センターはPFI型の最新の刑務所です。ヒビひとつ入らなかった。ひょっとして当時、日本一安全な場所だったかもしれません。こんな非常時であっても3食に困らず、電気もしっかりと通じている。刑務所の中の人間が、一番、安全を担保されていたなんて、皮肉なものです。

 津波で流された方々、寒いところで寝る場所もなく途方に暮れている被災者の方々をテレビで見た時、本当に申し訳ないと思った。こんな快適な場所で何もせずに居てもいいのか、という罪悪感に駆られました。

 私は刑務官に毒づいてやりましたよ。「こんな贅沢なもの造りやがって! 刑務所なんてボロでいいんだ」なんて。刑務官は「そんなつもりじゃないんですけど」とか何とか言っていましたけど。「受刑者でも品行のいい人間は、被災地にボランティアに行かせていいんじゃないか」と提言もしましたが、「受刑者は絶対にダメだ」と言うことでした。しかし刑務官は東北の刑務所に応援に行っていたようです。

 政治家としてもどかしい、なんてもんじゃないですよ。刑務所内で何かできることはないかと考えていると、避難所で物資が不足しているというラジオニュースを聞きました。私は秘書の面会を通じて、毛布や靴下を集めて送るように指示しました。そして私の手元にも未使用の靴下が5足あった。それも現地に送りました。少しでもお役に立ちたかった。

 6月中旬には(歌手の)松山千春さんがやってきて、「ここは刑務官にゴマでもすって1日でも早く出て、政治家として活動すべきだ」と連絡がありました。さらに、私の自宅に故酒井雄哉さん(注:荒行の「千日回峰行」を達成した天台宗の高僧)から、「人生、何ひとつ、ムダなものはない」との色紙が自宅に届いたとも知らされ、改めて早く社会に復帰して、政治家として活動しなければいけないと奮起したものです。

3月13日の日記

原発の安全神話、官僚にだまされた

原発事故の影響はあったのですか。

鈴木氏:喜連川は福島第一原発から約100kmの距離にあります。2カ月間は刑務所の窓が開けられませんでした。しかし、事故に関することや放射線と人体への影響などは、一度、「人体に影響はない」と言われたくらいで、その後、刑務官から聞かされることはあまりありませんでした。しかし、情報が制限されている中で、「見えない放射線」を想像すると怖かったですね。本当に人体への影響はないのだろうか、もっと状況が悪化したらどうなるのか、などネガティブなことが頭の中を駆け巡りました。

自民党時代の鈴木さんは原発推進の立場でした。その原発で事故があったことをどう総括しますか。

鈴木氏:私が(秘書として)お仕えした中川一郎先生も、私も原発を推進していました。それは、安全神話に乗っかっていたからです。

官僚や東電にだまされたということですか。

鈴木氏:だまされた。原発は安全だと信じていた。しかも一番コストが安く、長持ちする。そういう説明を中川先生は鵜呑みにしていましたし、私も同じように認識していました。福井県にある高速増殖炉「もんじゅ」の予算を付けたのは中川先生です。1980年、当時の鈴木善幸内閣で科学技術庁長官だった中川先生が「科学技術立国」をうたって予算を付けた。その時も官僚から「30年後には実用化できます」と説明を受けています。しかし、もんじゅはナトリウム漏れ事故を起こした1995年以降は運転をストップしています。その間も安全管理のための莫大なコストがかかっています。「30年後には実用化できる」なんて、ウソっぱちでした。

今、鈴木さんは脱原発の立場です。しかし、当時、刑務所の中では世論などを知る機会に乏しく、すぐに考えを変えることは難しかったのでは。

鈴木氏:いや、そうではないですね。刑務所の中ですでに考えが変っていました。こんなに危ないものはダメだ、手をつけては絶対にダメだと。何せ怖かったですから。事故直後の3月12日の日記を見て下さい。

 「電力需要も分かるが、人命が一番である。この地震で考えなければならないのは、21世紀、環境の世紀と言うなら、電力の使い方、節電も日本人一人一人考えるべきだ。新幹線もスピードを出す必要がない。無駄なエネルギー消費だ。価値観、意識改革をする時にきている。スローライフ、自然との調和、自然への敬意を考える時だ」と綴っています。

 原発がなければ生活ができないなんて、ウソですよ。原発がなければ死活問題だと言うのであれば、安全には安全を重ねて原発を利用し続けるという考えも認めます。しかし、事故以降、全国の原発はストップしたのに真夏や真冬をしのげているどころか、余力すら残している。事故後は、自然再生エネルギーの技術革新も進んでいます。さらに、石油やガスを効率的に運用すれば十分、事足ります。

 原発が動かないから電力料金を上げるなんてこともこじつけの論理です。

3月13日の日記

カザフスタンのような街づくりを

鈴木さんは出所後、被災地に赴かれましたか。

鈴木氏:出所して12日後、私は義援金を持って岩手県の田老町に行きました。田老町は100年の間に3回の大津波被害があり、その経験から10mの防波堤を構えていたところです。それにもかかわらず津波は防波堤を破壊し、乗り越え、甚大な被害を与えた。そこで港の復旧工事をしていたのが私の地元・釧路の業者で私の後援者でした。見覚えのあるのぼり旗を見たときは感激しました。

「福島再生」のための具体的なアイデアはありますか。

鈴木氏:「21世紀の文明は東日本大震災から始まった」と、後世の人に言われるような街づくりをしていかなけばなりません。しかし震災から丸3年が経過して、仮設住宅に入ったままの被災者も多く、前に進んでいない印象です。復興住宅の建設も進んでいますが、そういうレベルの話ではなく、もっと大きなスケールで街づくりをしていかねばならないと思います。

 若い人にも魅力的に見える新しい街をつくり、新たなコミュニティを形成していくことです。しかも地球規模のランドスケープ、ドリームランド、メモリアルモニュメントとなるような。私はカザフスタン共和国の新首都アスタナの街づくりを参考にすべきだと思っています。私はちょうど収監される前にアスタナを視察し、その光景が目に焼き付いてます。そこは建築家の黒川紀章氏が設計した街として知られていますが、元は何もなかった原野にまるで宇宙基地のような夢のある街を造り上げたのです。

時間は流れ、政治家や社会全体の関心も薄れていますね。政治家のやるべきことは多いです。

鈴木氏:その通りです。今月3日に朝日新聞が「復興予算9兆円使われず」との見出しで報道しました。国が計上した東日本大震災の復興予算、2012年度から13年度の総額25兆円のうち9兆円が使われていなかったというのです。被災者のニーズに事業が合っていないとも書かれていました。ふざけた話です。(今、私は国会議員ではないので)娘の貴子(衆院議員)が「どうして復興予算が円滑に使われなかったのか」、質問主意書にまとめて政府に説明を求めています。しかし、誠実な回答は返ってきていません。

鈴木さんはロシア通ですが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故から学べることはありそうですか。

鈴木氏:1999年から3年間、チェルノブイリで被曝した子供を私の地元北海道で受け入れました。北海道大学付属病院放射線科で検査を受けさせ、治療をし、データを蓄積しました。同時に現地にもチェルノブイリ事故後、約30年間に渡る様々なデータがある。またロシア元首相で原子力大臣を務めたキリエンコ氏は国営原子力会社のロスアトムの社長で、親日家で知られています。日露双方の実績や人脈をフルに活用し合うことが大切です。

北方領土に住んでいるロシア人が被災地に、援助をしてくれたようですね。米国の「トモダチ作戦」などは大きく報じられましたが、ロシアが日本に向けて実施した震災援助のことはあまり知られていません。

鈴木氏:1994年の北海道東方沖地震で、北方領土は甚大な被害を受けました。その際、日本は人道支援をしましたから、その時のことを覚えていて、お返しをしてくれたのでしょう。外交はこうした信頼関係の積み重ねが、とても大事なのです。日本は今、米国一辺倒ですが、安倍首相にはそうした過去における日露間の信頼関係をもう一度取り戻してもらいたいものです。

現在は公民権が停止中だが、鈴木氏は「生涯政治家」と語り、多忙な毎日を送る
傍白

 鈴木宗男さんの取材を続けて15年ほどになる。収監中も日経ビジネスに「獄中手記」を寄稿してもらっていた。鈴木さんは実に筆まめだ。政治活動が制限された獄中では「書くこと」が鈴木さんの生き甲斐だったに違いない。「日記」は出所直後に一度、見せてもらっていた。細かい字で日々の動向や心の有り様がぎっしりと綴られていて、政治犯の記録としても貴重なものだ。

 震災4年目を迎えた時、鈴木さんは震災とどう向き合ったのかとふと考えた。情報が制限された生活を送った人間だからこそ、見えていたこともあるはず。震災以降の記述を見せてもらうと、「どうして○○ができないのか」などの文言が目立つ。政治家として何もできないもどかしさが伝わった。かつては原発推進派であった鈴木氏が脱原発へ考えを切り替えたのが、事故直後だったということは意外だった。塀の中だったからこそ、「感覚」が研ぎすまされていたのだろう。鈴木さんのように直感を大事にする政治家は随分、少なくなった。