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2015年3月31日に公開した記事を再掲載しました。

宮城県石巻漁港前にある有数の水産加工業者である「木の屋石巻水産」。

全国の人たちは社名よりも「くじらの大和煮」の缶詰で知っている方のほうが多いかもしれません。震災では工場は崩壊し、倉庫にあった商品の大部分が流されてしまいました。出荷待ちの缶詰は約100万缶ありましたが、その半分以上が失われてしまいました。缶詰のデザインを模した高さ10メートル、重さは200トンという巨大な原料(魚油)貯蔵用のタンクがあったのですが、それが約300メートル先の県道の分離帯まで流されて留まりました。しばらくの間、放置されていたこともあり、世界中のメディアがあの倒れた「缶詰」の写真を撮って配信しました。陸前高田の奇跡の一本松と同じように震災の被害の大きさを表す象徴的な写真となりました。

(聞き手 瀬川明秀)

巨大な鯨缶タンク

震災から4年たちました。工場は震災前の状況に戻ったといえますか。

木村氏: 現在は約20品目を生産しています。震災前が約40品目ほど扱っていたのでちょうど5割です。ただ、震災直後から多くの人たちに支え続けて頂いたおかげで今年中には9割かうまくいけば100%戻せると思います。

震災直後の流出した缶詰タンク

何もしないと不安になる

大きな被害を受けた石巻の業者が多い中、木の屋さんは、翌月初めから仕事を開始されたらしいですね。

木村長努社長(右)と木村隆之副社長(左)

木村氏:震災で食品工場は泥だらけになり使いものにならなくなりました。倉庫にあった商品も海に流されていった。「これ一体どうすればいいんだ、たぶん捨てるんだろうなぁ」と途方にくれていました。震災直後はちゃんとした情報も入ってこなかったので、不安を煽る変な噂もたくさんありました。「仕事どころではない」と社員を解雇したり、自宅待機させたままの会社もあるらしい」といった話も。本当かどうか分からないような噂ばかり流れていました。

 何もしないと不安がどんどん大きくなる。それは我々経営陣も社員も同じです。ですから、震災直後から、県外の工場に相談して、委託生産というかたちで意地になって生産を再開するために動きはじめたんです。震災から約半年、10月から缶詰とレトルトカレーの販売を開始できました。自社生産ではないので、コスト的には厳しかったのですが、「お客さんとのつながり」をなんとか維持しようとの思いでしがみつきました。

流された缶詰を東京に送る

 震災から約2週間後に、うちのサバの缶詰を震災前から気に入って使ってくださってくださった東京のイベント酒場「さばのゆ」さんから「泥だらけの缶詰でいいから東京におくってください」という申し出がありました。実は、さばのゆさんを中心にラーメン屋さん、焼きとん屋さん、居酒屋さんなど、うちの缶詰を使ったメニューを出していた飲食店が複数あったんです。経堂では、木の屋の名前は震災前からよく知られていたようです。

 それで、まだこちらには水道も電気も復旧してない状況だったんですけど、「あの味をどうしても食べたい。東京で缶詰を洗います」と言うんです。それで発泡スチロールの箱にとりあえず500缶ほど詰めて、若い社員が車に積んで届けました。いま思うと、ヘドロと重油まみれで臭いがスゴかった。それでも、経堂のさばのゆさんは、受け取って、洗い始めてくれた。

 今思うと、臭いもきつく、保管も大変だったと思う。あれは有り難かった。その缶詰を洗うシーンが東京の民放キー局の報道番組で放送されたんですね。たまたま別の目的で経堂に来られていたらしいのですが、店の前で泥だらけの缶詰を洗う様子をみかけて急遽撮影、放送してくれたんです。

 経堂からは3月末から、毎週1便か2便、支援物資を積んだトラックやバンが来てくれていました。缶詰を洗いはじめてからは、支援物資を積みおろした後に泥まみれの缶詰を数百から千缶ほど積んで経堂に戻るんです。近所のお店の人や常連さんが、どんどん洗ってくれました。

 それから、ほかのテレビ、新聞などの取材が立て続けに来るようになり、石巻にもカメラが入るようになってきました。5月に入って港から離れたビルに仮事務所をオープンしたんです。電話が復旧すると、テレビや新聞で見た全国の人たちから「洗った缶詰をうちに売ってくれ」という申し込みがあり、「缶詰を拾うのを手伝いたい」というボランティアさんがどんどん来てくれたんです。あれは信じられなかった。いまも思い出すと涙がでます。

震災から1カ月、4月には早々と社員を採用された。

木村氏:5月には内定を出していた女性の新入社員2人が入ってきました。普通の業務がまだなにもできない状況でしたが何もしないわけにはいかない。嫌がらずに黙々と缶詰を拾ったり洗ったりする作業をしてくれましたね。

 社員やボランティアさんが一緒になって拾い続けました。7月には水道と電気が復旧したので、洗う作業のボランティアさんも加わった。これまでにのべ4000人ものボランティアさんが参加してくださり、8月末までに40万缶を拾い集めることができました。

 その中には明らかにダメになったものもありますので、中身が大丈夫である24万缶を「欲しい」という方にお譲りしました。1缶300円(の義援金と交換という形で)。ラベルははがれて中身は分からないものも多かったのですが、同窓会や結婚式の引き出物、文化祭などのイベントで扱ってくださる方が多かったですね。震災前に副社長のアイディアで「出会いに感謝します」と缶詰の裏に書いたものがあったのですが、特に人気でした。

4000人のボランティアが40万缶の缶詰を掘り出し7000万円の義援金を集めた

ちなみに、これは「売った」のでしょうか。

木村氏:いえいえ(笑)。ラベルがはがれて中身が何か分からないもの。新品の缶詰を購入して頂いた方にお礼でお譲りしたり、寄付をしてくださった方々にお譲りしてきました。そのおかげで7000万円の義援金が集まり、年末までにその24万缶がすべてなくなり、2013年からは新しい工場を稼働させることができたのです。

4000人のボランティアが石巻の工場に集まり40万缶を拾い上げた。それを欲しいという方が全国にいた。すごいですね。クレームはありませんか。

木村氏:ありません。もともと理解している方々が手にとってくださったからでしょう。

買ってない人たちからも、クレームは?

木村氏:それもありません。

あの時の日本人が素晴らしいんです

最近、食品や外食店での異物混入が大きなニュースになるようになってきました。なんだか隔世の感を禁じ得ませんね。

木村氏:ええ。あの時の日本人が素晴らしいんです。いまでも信じられないほどです。ヘドロまみれになった中身が分からない缶詰を、洗えば中身は大丈夫、欲しい欲しいと言ってくれたんですから。とても恩を感じています。

ところで、本社工場正面にあった鉄製のくじら缶の巨大タンクは300メートルも流され県道の中央分離帯に流れ着きました。強烈なインパクトもあり「震災遺構」として注目されました。

木村氏: うちは金華サバの缶詰が売れていますが、創業はくじらから始まっているのです。ですから「くじらの大和煮」はもっとも大事な商品なのです。

 確かに、戦後まで日本人の貴重なタンパク源であった「鯨」を食べる文化については現在いろんな意見があります。27年前に調査捕鯨にシフトしていますが結局、鯨を食べるカルチャーが断絶しつつあるんですね。懐かしくて食べる人たちばかりで次の世代は知らない。「このまま食べなくてもいいんじゃない」のという無関心に流されつつありました。

 世界中の人があのタンクを撮影しては、世界に配信した。何が書いてあるのかといえば「鯨の大和煮」だと。みなさんもちょっとは食の文化に関心をもってくださったのではないかと思うんです。

 不思議ですよね。あのタンクは、実は、流されずに頑張って、あの目立つ場所に踏みとどまってくれたんではないかと思っています(笑)。

缶詰の物語が映画になる

震災から4年間の木の屋さんの取り組みをモデルにした映画が夏頃から製作されるとか。

木村氏:経堂の人たちとの交流を通じて弊社が復興する様子を実話をベースに描いた『きぼうのかんづめ』(ビーナイス刊)という絵本があるんです。

 その映画化の話があります。人々の記憶は年々薄らいでいきます。しかし、映画になると10年は人々の記憶に残る、というらしいのです。風化させない意味でも意義があるのではないかと思っています。

どんな映画に?

木村氏:まだプロット段階なのですが、絵本の内容とは違い、震災1カ月後に入社したうちの2人の女性社員をモデルにしたものになるそうです。

彼女たちはいまも働いているんですか。

木村氏:ええ、元気に働いています。1人は社内結婚をし、先日、元気な赤ちゃんを産み、今産休中です。世の中、動いているんです(笑)