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2015年3月13日に公開した記事を再掲載しました。

 岩手銘菓として親しまれている「かもめの玉子」のメーカー、さいとう製菓は大船渡を襲った二度の津波を乗り越えてきた。1960年のチリ地震津波、そして2011年の東日本大震災。その間に、零細の自営菓子製造業は三陸を代表する菓子メーカーに成長。二度の津波は齊藤俊明社長の人生の進路も変えた。津波がもたらした運命によって家業を継ぎ、大船渡と共に歩んできた齊藤社長が考える復興の姿を聞いた。

(聞き手は秋山 知子)

齊藤 俊明 氏
さいとう製菓社長。1941年生まれ。84年から現職。大船渡商工会議所会頭。

3年ぶりに大船渡に来ました。元の大船渡駅の周辺は、地盤のかさ上げ工事が進んでいますね。被災された、さいとう製菓さんの元の本社はあの近くにありましたね。

齊藤社長:あの建物は昨年4月に解体しました。今後、別の場所に、平成29年には洋菓子工場とカフェ併設の総本店を新築する予定です。

被災した本社社屋は、屋根を超える8.5メートルまで浸水した。津波到達水位を示す青い表示板は現在「津波伝承館」に展示されている

齊藤社長は、チリ地震津波(1960年)と東日本大震災の二度の津波を経験されていて、しかも二度とも津波が襲った時には偶然、内陸の盛岡にいらしたんですね。

齊藤:水難の相はないんだね(笑)。3.11のあの時は、盛岡へ親戚の見舞いに行って、百貨店で昼食を取ってから5階の陶器・ガラス器の売り場まで下りてきたところでした。すごい揺れで、物は全部落ちて壊れるし、なかなか収まらない長い揺れでこれは絶対に津波が来るなと思った。揺れが収まってから誘導に従って建物を下りて、地下駐車場から車を出そうとしたらまた余震が来て、このままつぶされるかと脂汗がダラダラ出たね。

 やっと外に出たら信号が消えてすごい渋滞。その渋滞の中で、車内のテレビで津波の実況を見ていました。3時間半かかってやっと大船渡に着いたら津波はもう引いた後だったけど、山手の立木にいろんなごみが引っかかっていて、大船渡の駅前にあった建物が山手の奥の十字路まで流されてきていた。これは大惨事だ、大船渡は全滅だなと思いました。

着いてすぐ安否確認をされて、幸い全員無事だった。

齊藤:社員と家族、2名を除いて無事の確認ができて、その2名の方も無事でした。

一方、震災の際に本社におられた弟さんの齊藤賢治専務(当時)が撮影された動画が、震災直後には非常に話題になりましたね。地震直後に「津波が来る。避難して」と冷静に誘導をして本社そばの丘の上に避難された。

齊藤:彼は(チリ地震の)津波の恐ろしさを経験してるから、とにかく逃げろ、逃げろと。たまたま3月11日の朝礼で、万一の場合に非常用品を持ち出す担当者を決めていたんです。誰が何を持ち出すと。でも結果としては着の身着のまま、何も持ち出せなかった。いざという時、自分の命を守るという時には頭に浮かばないんだね。

 被害がもっと大きかった陸前高田にもうちの店舗があって、3名社員がいましたが、幸い3名とも無事でした。しかもお店の現金をわしづかみにして逃げました。それはあっぱれだった。

 避難したら必要なものが何もない。ないないづくしでしょう。非常用七つ道具が入っているものはぜひ持っていくべきだね。頭で考えるより先に体が動いて、すっと持ち出せるぐらいに訓練しておく必要があるね。

 それから、防災用品とか備蓄をしていた会社もずいぶんあったけど、全部流された。鉄筋コンクリートの3階以上に置いておかないとダメだね。

現在の本社は、高台にあって被災を免れた中井工場(大船渡市赤崎町)に移っている

震災後V字回復するも、復興特需は2年で終了

3月というのはもともと書き入れ時だったんですね。

齊藤:贈答用などが多いので、年間で3番目に忙しい時期で、工場には在庫がありました。もうこれは商売にならないと思ったから、かもめの玉子の在庫を避難所や高齢者施設に配りました。仙台や宮古、盛岡にも在庫があったからそれも戻して、3回に分けて全部で30万個、3000万円近くを配りました。

 社員でも1人、宮古の方へ車で営業に行った帰りに釜石で地震に遭って帰れなくなった人が、積んでいたかもめの玉子を皆さんに配って喜ばれました。釜石市民からもお手紙をもらったね。釜石市長からも感謝されました。その社員には次のお正月にあっぱれ賞を贈りました。

震災後、首都圏でも、かもめの玉子を店頭で目にすることが増えました。

齊藤:震災後、当分は商売をやっても売り上げは3分の1あるかないかだろうと思って再開して、直後は予想通りでした。陸海空の物流がすべてストップしていたので人もモノも動かない。社員も一時解雇や休職をしてもらいました。工場は1カ月休んだ後で再開。社員も呼び戻しました。4月29日に東北新幹線が再開したら人とモノが動き始めて、V字回復です。ボランティアが被災地にどんどん来るし、あちこちから支援のために販売してあげますという話が来て。通販も、それまでは年7000万から8000万円ぐらいだったのが倍に伸びました。

 特需だね、震災ブランドというか。復興フェアとかで売れたのは売り上げの10%ぐらいかな。でもそれは一時的でした。震災とその次の年まで。

4年が経ちましたがその後の状況はどうですか。

齊藤:震災ブランドのブームが続けばいいとは思っていたけどいずれは終わるだろうと覚悟はしてました。勢いが落ちたのは2013年の1月2月、特に東京支店の売り上げが急に30%落ちましたね。

理由は何でしょうか。

齊藤:当社の子会社(東京玉子本舗)が東京で販売している「ごまたまご」が売れ始めたからでしょうね。ごまたまごの売り上げが上がればかもめの玉子が下がる。そういう現象が起きました。昨年、ようやくそのダウンした分は戻ってきたね。

地震もなく早朝に襲ってきたチリからの津波

50年前のチリ地震の時も、震災の時の本社と同じ場所にご自宅と工場があったのですね。

齊藤:そうです。あの時は、私は高校を出て盛岡の警察学校にいました。朝、宿直当番に電話が入り、津波があって大船渡は岩手銀行を残して全滅だと。警察だからそういう情報は早いんです。

 あの時は地震がなかったから、津波が来るとは誰も思っていなかった。チリで大きな地震があったという情報も何もなかった。ハワイでは津波の被害があったが、気象庁は日本までは来ないだろうと思ったんでしょう。

 朝早く(津波到達は1960年5月21日の午前4時半頃)、起きていた漁師の人たちが、海の様子がおかしいことに気付いた。潮がどんどん引いていって海の底が見えていたんですね。うちは海から300メートルぐらいでしたが、近所の人が騒ぎ出して、家族も目が覚めたんだね。気が付いたら波がすぐそこまで迫ってきて、危ないところだったそうです。近くの丘まで逃げたんですね。3.11の時に専務がビデオを撮った、その同じ丘です。

寝ていて逃げ遅れた方も多かったんですね。

齊藤:その時の津波の高さは4.3メートルぐらい。今回はうちの本社の場所で8.5メートルだから半分ぐらいだったけど、水の勢いは強かったようです。

 盛岡から朝すぐバスに乗って、12時前に大船渡に着いた。バスの車内のラジオで被害状況、何名が亡くなったとか負傷者何名と情報が流れていて、ほとんどの人が泣いてたね。変電所のある高台でバスがストップで、そこからは歩いてがれきをかき分けながら自宅まで帰った。

 あたりの家は流されたけど、隣の家が大きな総欅造りの家で流されず、その陰にあったのでうちも助かった。ただ店の中はいろいろなものが入ってきて全壊でした。

 当時、父が行政連絡員をしていて、支援物資の配給の仕事にかかりきりだったので、家の後片付けは私と弟2人でせざるを得ませんでした。警察学校にはなかなか戻れなくて、結局辞めざるを得ないなとあきらめました。

そこで人生が変わったんですね。

齊藤:そうだね。お菓子屋を継がないつもりだったけど、今だにやっています。

津波のために進路を諦め、菓子業を継ぐ

さいとう製菓の原点はお祖母様が戦前に始めた齊藤餅屋で、お父様の齊藤俊雄前社長が観光土産菓子の製造を始めたとのことですね。そのお菓子屋を継がないつもりだったというのは、どのような理由ですか。警察官にどうしてもなりたかったとか。

齊藤:それもありますが、その頃は家業が苦しくて、夢も希望もない仕事だと思っていたんです。

 中学1年生の時から朝4時に起きて、家族総出で大福を作り、自転車に積んで販売してから学校に行くわけ。それが高校2年まで続いたんです。

 中学3年の時に父が急病で倒れました。運よく助かったけれども、その後も入退院を繰り返しました。大黒柱が倒れて、明日の食事も分からない状況の中、家族を支えないといけないので、簡単な饅頭を作って売り歩くわけ。兄弟6人と祖母、父の看病にかかりきりの母。その家族の生活が中学生の自分の双肩にかかってきたんです。何と不幸な星の下に生まれたものかと泣きましたね。

 しかも父は、勉強をするなと言うんです。家業を手伝ってほしいからそう言うのだろうと思っていたら、お菓子屋を継いでほしいというのが本音だった。勉強して大学へ行けば大船渡には帰ってこないだろう、それでは困ると。だから、勉強して何になるか、勉強するなと言われ続けてつらかったね。

それでも成績は優秀だったのですね。

齊藤:高校の受験の時は隠れて勉強してました。真冬なのに火の気がない手がかじかむようなところでね。高校に入ってからは、今度は創業者である祖母が病気で入院して、私は看病のために病院から高校へ通ったんです。

 高校へ入ってからも勉強するなと怒られて、それまでは親に口ごたえなんかしたことなかったけれども、2年生の時か、そんなに言うなら学校なんかやめてやると、初めて反抗したね。そうしたら、学校をやめたら世間体が悪いから、学校へは行けと。その後、柔道に打ち込んだこともあり、同級生が警察官になるというので自分も警察官を志望しました。

そして警察学校に入られて間もない18歳で、実家が津波で壊滅的な被害を受けた。その再建に一家で取り組みながら、その翌年には現在のかもめの玉子につながる商品の製造に着手されたのですね。津波が会社にとっても大きな転機になったように思えます。
 今回の津波の体験を後世に伝えるために、大船渡津波伝承館を開設されましたね。

齊藤:伝承館はさいとう製菓とは別団体の、一般社団法人の運営です。現在の場所はこの中井工場の一角にあります。

津波伝承館を、被災した旧本社の場所に作りたいという話があったと伺いましたが。

齊藤:旧本社を伝承館にしようという話もあったんだけど、改修費用の面から断念しました。今度、大船渡の駅前に建設される公共施設の中に入ることになりました。年間通じて結構お客さんが来てくれるので、ぜひ駅前でということになったようです。

2013年3月、齊藤賢治専務(当時)が中心になって設立、仮オープンした大船渡津波伝承館。東日本大震災の語り部の講演や資料展示などを行っている

夢のある賑わい創出で中心街の復興

津波に流された大船渡の中心街は復興のためのかさ上げ工事が進む

齊藤社長は大船渡商工会議所の会頭も務められていますが、大船渡の復興は現在どこまで進んでいますか。

齊藤:被災した事業所が1400ほどあったけど、もう90%は再開しています。仮設・本設含めてね。

被災した中心街は港の周辺地域ですね。

齊藤:そうです。水産関係は海のそばでないと仕事ができないので、だいたい以前と同じ場所で事業を再開しています。ただ、大船渡は地盤が沈んで、かさ上げしないと建物が建てられない。現在は残っている建物を解体してかさ上げの工事が進んでいます。

 しかし解体・建設するにも、補償されるのは建物の残存価格だけで、移転や新築の費用が出ないために二重ローンで苦しんでいるところが多い。さらに資材価格も人件費も、消費税も上がっているし。

復興への町づくりはどのようなプランを描いているんですか。

齊藤:やはり中心街の賑わい創出が一番重要です。中心街は復興の顔、町の顔だから。全国的にそうだけど震災前の商店街はシャッターが下りている店が多かったし、そこへの震災でとどめを刺された。今は家で座っていてもモノが買える時代だから、いかに人を町に集めるかが非常に重要でしょう。でも何か夢のあるものがそこにないと人は集まらないですよ。

 アイデアとして、大船渡にしかないものをそこに持ってきてはどうか。江戸時代、この地方には気仙大工という全国で活躍した大工集団がいました。だいたい地元の入母屋造りの家は気仙大工が作ったんです。今回の津波で、私の自宅も隣の家も流されずに済んだ。2軒とも地元の大工が建てた昔ながらの家です。私の家は2階の床上1メートルまで水がきて、しかも流れてきた家に衝突されて柱が8本も持っていかれたけど屋根が落ちなかった。

 さらに大船渡にはその気仙大工の流れを汲んだ船大工がいて、江戸時代から千石船を作ってきました。これは大船渡にしか作れる人がいないんですね。釘を1本も使わずに、分厚い板にゆっくり熱を加えて曲げて水も漏らさない船を作る技術なんです。

 現在、平成4年に建造した気仙丸という千石船が蛸の浦にある。これは商工会議所の管理になっているんです。その船を陸に上げて、博物館を作って入れたらどうかと。博物館と人が集まるホールの建物を、気仙大工の伝統的な木造技術で建てれば素晴らしいんじゃないですか。そうした提言をしています。

傍白

 ご覧になった方も多いだろう。東日本大震災の後、齊藤専務が撮影された動画を見て衝撃を受けた。吉村昭著『三陸海岸大津波』に綴られていたあの通りの破壊的な津波の姿がそこにあった。だが静謐なとき、入り組んだリアス海岸が織りなす大船渡湾は光にあふれ、この上なく美しい。
 昨年12月、現存する千石船の一つである気仙丸が、初めて大船渡湾を帆走したという。船の構造が現行法を満たしていないため通常の航行はできないというが、大きな帆を上げたいくつもの千石船が大船渡の湾に浮かぶ夢のような光景を思わず想像した。
 津波によって受けた被害のために大船渡にとどまり、家業を三陸有数の企業に育てた齊藤社長。「町づくりの原動力は地元愛・郷土愛。その精神がないと創造力はわいてこないよ」という齊藤社長の言葉を再び思い出している。