「我々の装備を使うのは今だ」
米軍は当初から二つの明確な方針を持っていました。一つは空輸活動のハブとなる空港を開通させること。もう一つは、その空港を復旧のシンボルとすることです。海水と瓦礫によって大きなダメージを受けた空港を復旧することができれば、被災民にも「自分のところも復旧できる」という希望を持ってもらうことができます。
笠松さんは現地でどのような役割を果たしたのですか。
笠松:陸上自衛隊は震災に対応するため東北方面総監部に災害統合任務部隊(JTF-東北)を立ち上げました。司令官は君塚栄治・東北方面総監(当時)です。その司令部の配下に設置された日米調整所仙台空港現地調整所長(当時)として詰め、米軍や空港関係者との連携に当たりました。

米軍は3月16日、米太平洋特殊作戦コマンドを仙台空港に派遣し、復旧作業を開始した。同コマンドは空港のないところに空港を造る特殊作戦のエキスパートだ。臨時の航空管制機能を設置する技術も有している。3月18日には、コゼニスキー大佐が率いる海兵隊が到着。休む間もなく、瓦礫を除去する作業の準備に着手した。翌日から、米空軍が空輸してきた救援物資を、海兵隊が被災地に届ける支援が始まった。
米軍と協力して作業を進める中で印象に残っているのはどういう点ですか。
笠松:彼らが「日米の間には文化面のバリヤーがある」ということをよく知っていてくれたことです。バリヤーを越えるのは容易なことではありません。しかし、その存在を意識しているのといないのとでは、行動が全く異なります。
例えば彼らは、被災者や空港職員と出会うとお辞儀をしていました。私は他の国で活動する米軍の姿を幾度も目にしてきましたが、あんな光景を見たのは初めてでした。
それだけではありません。彼らは自由に使えるシャワーユニットをいくつも持っているにもかかわらず、それらを使おうとはしませんでした。3月とはいえ重労働をしているので汗もかいたことでしょう。髭も剃らないので、ぼうぼうになっていました。なぜかと聞くと、「我々が使わなければ、被災者の誰かが使えるから」と答えるのです。
宿舎として使う天幕も簡易で小さなものを空港敷地の隅に立てて使っていました。彼らは、パソコンと巨大ディスプレイを使った会議などができる本格的な天幕を持っているにもかかわらずです。これも「余計なスペースを使わなければ、被災者が何かに利用できるかもしれないから」という理由でした。
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