2015年3月10日に公開した記事を再掲載しました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。被災民の救助、被災地の復旧・復興を考えた時、いの一番に行なわなければならなかったことの一つが、物流インフラの復旧だった。被災地では、ありとあらゆるものが地震で壊れ、津波で流された。物流が機能しなければ、救護物資も救援物資も、被災者の元に届けることができない。地上の交通網が寸断される中で期待されたのは、物資を空から届ける方法だった。
その空の道を切り開くのに大きな力を貸してくれたのが米軍だ。東北の空の玄関である仙台空港を復旧させるプロジェクトに、「トモダチ作戦」の一環として加わってくれた。そのおかげで、わずか1カ月のうちに、民間航空機の離着陸が可能になった。
仙台空港復旧プロジェクトにおける米軍の協力はいかなるものだったのか。トモダチ作戦が持つ安全保障上の意義は何か。トモダチ作戦の経験は今、どのように役立っているのか。仙台空港復旧プロジェクトで米軍との調整の最前線に立った笠松誠・陸上自衛隊国際防衛協力室長(当時。現在は陸自西部方面総監部情報部長)に聞いた。(聞き手は森 永輔)
仙台空港の復旧プロジェクトはどのように進行したのですか。
笠松:これには、米海兵隊のクレイグ・S・コゼニスキー大佐をはじめとする米陸海空海兵隊が大きな役割を果たしてくれました。

東日本大震災発生時に陸上自衛隊・国際防衛協力室長。現在は西部方面総監部情報部長。1965年生まれ。愛知県立大学卒業後、自衛隊に入隊。北部方面ヘリコプター隊、第1次イラク復興業務支援隊、在パキスタン日本国大使館防衛駐在官、幹部学校戦略教官などを歴任して現職。
東日本大震災が発生した当時、陸上自衛隊の幹部学校で戦略教官を務めていた私は、国際防衛協力室長に異動することが内定していました。これは外国との間で様々な協力関係をつくる部署です。震災の発生を受けて3月18日、仙台に向かうよう命じられました。
まるで海に沈んだかのように冠水し、悲惨な状況を呈していた仙台空港の姿を見た時は、復旧には半年はかかるだろうと考えました。建物は焼失し、管制の機能はすべて失われていましたし。
悲観する我々の背中を押し、短期間での復旧を目指す提案をしてくれたのがコゼニスキー大佐でした。彼が勤務していた海兵隊のキャンプ・フジには様々な重機や大型トラックがあります。「それを使うのは今しかない」と言ってくれたのです。海兵隊の司令部は、一度は待ったをかけました。米軍が復旧作業に関わった時に日本国民がどのような反応を示すか分からないので、慎重になったようです。しかし、コゼニスキー大佐がそれを説得してくれました。
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