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2015年3月11日に公開した記事を再掲載しました。

 65歳の時に脳溢血で右半身不随になった後、左手だけの演奏で奇跡の復活を遂げた「左手のピアニスト」舘野泉氏。福島県の南相馬市民文化会館(旧原町市民文化会館)で名誉館長を務め、東日本大震災後は演奏会などで南相馬市周辺の住民たちを励まし続けてきた。現地の小学校へピアノを贈ることに尽力、2013年にはフィンランドの「ラ・テンペスタ室内管弦楽団」を南相馬市に招へいするなど、多忙な演奏活動を続けながらも被災地支援に力を注いできた。

 若くしてフィンランドに渡り、シベリウス、グリーグなど北欧の優れた作曲家はもとより、南仏のセヴラック、ブラジルのナザレ―やピアソラなど知られざる作曲家たちの名曲を日本に紹介してきた。その透明感ある演奏から「鍵盤の詩人」とも言われる。左手で演奏するための新たな演奏技法を創り出し、世界中の作曲家に「左手のための曲」の作曲活動を促して、78歳の今も革新的な活動で活躍し続ける。2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、テーマ曲の独奏ピアノを担当したことでも知られる。

 聴く人たちの心を温かく照らし続ける舘野氏に、話を聞いた。

(聞き手は広野彩子)

東日本大震災の当日は、日本にいらっしゃったそうですね。

舘野:そうです。東日本大震災の日、僕は昭和初期に建てた古い東京・目黒区緑ヶ丘の自宅の2階にいました。若い頃はフィンランドを拠点に活動してきましたが、病気になって右半身が動きにくくなってからは、主に7~8月と12~1月は気候や風景が素晴らしいフィンランド、それ以外は日本で過ごす生活をしています。

震災直後、フィンランドの妻から心配する電話

舘野 泉(たての・いずみ)氏
1936年11月、東京都目黒区緑ヶ丘生まれ。60年、東京芸術大学を首席で卒業。64年秋、フィンランド・ヘルシンキでの第1回自主公演。68年9月からフィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミー教授に就任。81年、フィンランド政府の終身芸術家給与を受ける。2002年、フィンランドで演奏会の最中脳溢血に倒れ、右半身不随となる。2年半に及ぶ闘病生活を経て2004年、東京で左手による演奏会で復帰を果たす。2006年、70歳の時にフィンランドシベリウス協会から「シベリウス・メダル」を授かる。左手の作品の充実を図るため、「舘野泉 左手の文庫(募金)」を設立。著書に『星にとどく樹』(求龍堂)『舘野泉の生きる力』(六耀社)など多数。(写真=陶山勉)

 あれは東京でも猛烈な揺れでしたね。書棚の古い本も全部落ちてきてしまった。揺れの中で「これは大変だ」と思っていましたら、30分ぐらいして、ヘルシンキにいる妻のマリアから電話がかかってきたのです。「あなた、地震があったのね。すごいことになっているんじゃないの?」。仰天した様子でした。

 何しろ余震でまだ揺れている最中に電話をかけてくるもんだから、思わず「すごいことって、今ちょうど、揺れているんだよ」と答えてしまいました。マリアは英BBCの映像を見たようです。

 地震発生時、バイオリニストである息子のヤンネはオーケストラの仕事で山形県に滞在していて、震災に遭いました。停電になってしまったから、どこにも行けなかったし、連絡も取れなかった。

 ヤンネはその6~7年前から京都に住んでいましたが、ようやく京都に戻れたのが震災当日から約1週間後でした。

「自分にいまできることを、それがどんなに小さいことでも、こつこつと続けていくことが大切」(写真=陶山勉)

 幸い現地で大きな被害はなかったようですが、ヤンネは19歳までフィンランドで育って、地震なんかあまり知らないで育った人間ですから、よっぽどショックで怖かったのでしょう。周囲の人々の様子やその後の津波被害のすさまじさを見て、「日本でみんながこんなに大変な思いをしているのに、自分は音楽をやっていていいのだろうか」と思い詰めてしまいました。自分にも何かできることがあるんじゃないか、と悩んだらしいです。

 そこで私はすぐ京都を訪ね、「そんなに怖がることはないんだ。気持ちは分かるけれど、自分たちが慌てたって何もできない。とにかく落ち着いて、自分が普段やっていること、演奏することをしっかり着実に続けて、今までと変わりなく生活することが大事だよ」と話して、東京に戻りました。

被災地周辺は、母の生まれ故郷

2011年8月に、ヘルシンキで被災地のために震災チャリティーコンサートを開きました。

舘野:震災のあった2011年に病気で亡くなった母が、仙台出身です。僕は、仙台周辺に大勢の親戚・縁戚がいるのです。気仙沼に住んでいて津波にさらわれて、今も見つからない遠縁のおじさんが1人います。奥さんとお嬢さん2人が遺されてしまいました。今はみんな立ち直り、しっかりやっているようです。

 2011年は震災があっただけでなく、ケアハウスで闘病していた母が亡くなり、80歳過ぎて病気がちだった親戚のおばも亡くなり、色々なことがあった年でした。

 2011年にヘルシンキで開いたチャリティーコンサートは、震災復興と、福島県の南相馬市民文化会館復興の支援のためでした。僕は2004年に南相馬市民文化会館、愛称を「ゆめはっと」と言うんですが、ゆめはっとが開館した時から、名誉館長を務めているんです。

 僕の熱心なファンの1人だった当時の原町市長(現在は合併し、南相馬市)から頼まれ、開館と同時に引き受けたのが縁です。

 病で倒れてからの依頼でしたから、正直驚きましたが「今だからこそ」と言ってくださったのは、とてもうれしかったですね。その気持ちに応えたいと思いました。

2012年3月2日、震災後初の開催となった南相馬でのスペシャルサロンコンサート。(写真提供=南相馬市民文化会館「ゆめはっと」)

 ゆめはっとは、音響設備を重視し、2階席もあって1000人以上が入る立派なホールです。名誉館長として年に2回演奏をしに行く約束があります。震災が起きる前は、海外のオーケストラを僕が呼んで、コンサートを開いたりもして活発に活動していました。

 このホールができる以前は、演奏会といえば結婚式場とか、公民館が会場でした。もともと、吹奏楽が盛んな土地柄でしたから、音楽の拠点であるこのホールのことを、音楽や演劇を愛する地元の人たちがとても誇りに思っています。

 とはいえ震災後しばらくの間、会館に近づくことすら困難でしたから、しばらく活動ができませんでした。会館自体の被害はなかったのですが、周辺が津波の深刻な被害を受けていて、会館は避難所になっていました。決死の救助活動に当たっていた自衛隊が駐屯していた時期もありました。

 現在は以前の状態に戻りつつはありますが、あまり大規模なイベントはできません。交通インフラの完全復旧には、まだ何年かかかるようです。

南相馬の人たちを、励まし、励まされている

 今年1月25日にも、ゆめはっとでスペシャルサロンコンサートを開きました。毎年、演奏を聴きに来てくれる人たちと会って、演奏会の後で食事をしながらいろいろな話をして近況を聞いたりします。

 町は、すっかり変わってしまいました。もともと静かな町ではあったのですが、がらんとして、すっかり人の通らない町になってしまった。それでもそこに残って暮らしている人たちは、みんな、自分のすべきことを見つけてそれぞれ、前向きに生きています。

 思い切って新しいことを始めた人たちもいて、そういう人が話している姿は、とても明るい。自分で立ち上がって生きていくんだ、という強い思いが伝わってくる。前向きに生きている人たちと会うと、とてもうれしくなります。僕の方が励まされている部分がかなりあります。励まし、励まされている。

2012年3月1日、南相馬市原町第三小学校の子供たちの前でピアノ贈呈の記念演奏をする舘野泉氏。ピアノは、川崎市麻生区の昭和音楽大学から「ピアノを被災地に贈りたい」と相談を受けた舘野氏が橋渡し役となり、贈られることになった。(写真提供=南相馬市民文化会館「ゆめはっと」)

2013年にはフィンランドのオーケストラを南相馬に、震災後初めて呼びました。

舘野:最初は大変でした。フィンランドの「ラ・テンペスタ室内管弦楽団」の人たちに南相馬での演奏会を切り出すと、「絶対行きたくない」という人が圧倒的に多かったのです。フィンランドは、チェルノブイリ原発事故で影響を受けた国でもあります。震災そのものよりも、福島第1原発事故のことが世界中で報道されていましたから、みんなとても怖がっていたのです。「僕だってもう何度も行っているし、命に別状があるわけではないのだから」と何度も言って、長男のヤンネと一緒に必死に説得しました。

フィンランドのオーケストラを説得

 何度も説得しているうちにみんなも折れて、「分かりました、行きましょう」と言ってくれたのだけれど、また、「コンサートの時だけ南相馬に行って、あとはすぐ別の場所に移りたい。日帰りで行きたい」なんて言ってきた。だから、それではだめだと、「僕も泊まるんですから、皆さんも現地に泊まってください」とさらに話し合いを持ちました。1日目は仙台、2日目は南相馬に宿泊してもらい、そのあとで大阪、山形、長久手、東京と、各地で演奏してもらいました。

 地元の人はもちろん、とても感動していました。演奏会のその夜は、オーケストラのメンバー全員と地元の人たちとの交流会を持ち、思い出深い時間を過ごすことができました。

名誉館長として携わっている、南相馬周辺の地元の小学校などでの年に1度の演奏会は、子供たちにとっては大変貴重な経験ですね。

舘野:2008年頃から、南相馬の中でも山間部や交通の便の悪い地域の小学校や中学校を訪れ、子供たちに演奏会をしています。学校や病院などに出向いて演奏することを「アウトリーチ」と言います。まあ、出前ですね。弾くのは、ピアノでさえあれば、立派なピアノじゃなくていいんですよ。

「左手は、両手よりすごいかもしれない」(写真=陶山勉、以下同)

 左手だけのクラシックの曲はもともと数が少なかったですから、僕が弾く曲の多くは、僕が「左手のピアニスト」になってから、現代の作曲家が作ったものが多い。普通、ピアニストの弾く曲といえば、ショパンやベートーベン、バッハ、モーツアルト、ラフマニノフ、ドビュッシー、ラヴェルなど定番の作曲家の名曲で、しかも皆が知っている曲ばかりでしょう。聞いている方がそれを期待している面もあります。

 でも子供たちにはそうした先入観がなくて、目をキラキラさせて音を全身で浴びながら、楽しんで聞いてくれる。「すごいな」「かっこいいな」などと言いながら、とても熱心に聴くんです。大人のように、曲の構成を理解しようとか、この音楽は「分かる」「分からない」などと分けて考えない。それがうれしい。

 そんなことを言っている僕も、まだ両手で弾けたころは、右手がプリマ、華で、左手は音楽を作る土台だと思っていました。あくまで右手が主役だと。でもそれは思い込みでした。

倒れた時は、コンサートで演奏中だったそうですね。

舘野:2002年、フィンランドでの演奏会の最中に、曲が残りあと2ページというところで右腕の動きが遅れ出し、やがて完全に止まった。動く左手で何とか曲を弾き終えて立った途端に倒れ、病院に搬送されました。診断結果は脳溢血で、右半身が動かなくなってしまいました。リハビリ生活の始まりでした。

 何度動かそうとしても、僕の右手は、まるで生まれたての赤ちゃんの手の動きみたいに不規則に動いて、コントロールができなくなりました。音楽が僕のすべてです。僕にとっては、音楽は生きること。僕からピアノを取ったら何もない。でも、僕の右手は動かない。音楽に見放されたように感じた時期もありましたが、周囲の人たちの支えで、とにかくリハビリに没頭しました。

ブリッジの曲が見せてくれた素晴らしい左手の世界

 当時、米シカゴに音楽留学していた息子のヤンネは僕と同じ音楽家ですから、僕の気持ちをよく理解していたのでしょう。倒れた後は日本に戻っていた僕のところにしばしば立ち寄り、右手が思うように動かない僕でも弾けそうで、あまり知られていない曲を探しては励ましてくれました。

 そしてある時、ヤンネがフランク・ブリッジという英国人が作曲した左手のための即興曲を探してきてくれ、そっと置いていきました。

「両手が動くことは当たり前じゃない。たまたま腕が2本あるだけ」

 その曲は、ブリッジが、第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニスト、ダグラス・フォックスのために書いたものでした。左手で譜面を弾いてみると、目の前に突然、自分の体と楽器が一体となった、美しい蒼い海が広がって、流れていきました。

 左手で新しい曲を弾き始めたら、とにかく面白くて、楽しくてやめられない。毎日毎日、左手での練習に夢中になりました。妻のマリアから毎日、右手のリハビリをするように電話がかかってくるのですが、左手は弾けば弾くほど、どんどん難しいことができるようになるのです。右手を無理に動かすより、そちらの方がはるかに楽しい。

僕は、なんて左手をおろそかにしていたのだろう

 最初の2年ほどは、ただただ左手でピアノを弾いていることがうれしかったのですが、やはり難しいところがあるな、とある時気づいた。そこから困難を克服して、先へ先へと左手の道を開いていくのがまた、楽しかった。毎日毎日、弾いているうちに僕は、「両手で弾いていたころの僕は、なんて左手をおろそかにしていたのだろう」と思うようになりました。プリマも土台も、左手は何でもできてしまうのに。

 そうして、僕が「左手のピアニスト」になって、もう11年です。

今や、左手で弾くことの方こそが当たり前になった。

舘野:僕は、「ピアノは両手で弾くのが当たり前だ」って思い込んでいたのです。右半身不随になった最初の頃も、自分が左手のピアニストになるなんて思いも寄らなかった。考えもしなかった。

 でも、そもそも人間に両手があることだって当たり前ではないでしょう。たまたま腕が2本あったから両手で弾いていただけなのです。腕が3本あれば、3本で弾く音楽が生まれたでしょう。だから、世の中に、当たり前のことなんて、ないのです。

左手は今、両手以上のことをできている

 左手ならではの技術がいろいろあります。右側の高音を弾くときは、かなり大きく体をねじりますし、ピアノはもともと全身で弾くものですから、両手より体力を使います。

 僕の左手は今、両手以上のことをできているんじゃないか、という気さえしています。

傍白

 「あの日」から4年。「震災のことで、今、話を聞きたい人」を考えた時、ふと舘野泉さんの名前が浮かんだ。

 舘野さん自身がその魅力を見いだして演奏し、日本に広めた、シベリウスのピアノ曲の中でも人気の高い曲の1つ「樅の木」。この曲を聞くと浮かぶ、寂しく恐ろしい暴風雪の中でどっしり根を張り、嵐に翻弄されながらも耐え続ける白銀の森の景色が、なぜか東北のイメージに重なった。

 「白雪に覆われた世界はとても単調に見える。しかしその下にはたくさんの生命の色が隠されて動いている…。」(『星にとどく樹』舘野泉著)。透明感にあふれる北欧の旋律は、雪深く厳しい独特の気候が生み出したものではないか。フィンランド・ヘルシンキを愛し、居を構える舘野さんと東北には、慈善にとどまらない接点があるのではないか。勝手に思った。

 お話を伺うと、舘野さんの母親の実家は仙台市で、周辺に住む親戚も大勢、被災したという。東北は舘野さんにとって、大切な場所の1つだったのだ。「慌てず、普段していることを、しっかり着実に」。震災前から、熱心なファンの気持ちに応えて南相馬・原町地域の音楽活動に心を砕いてきたが、南相馬市が被災した後も、着実に、舘野さんにしかできない形で復興支援を続けてきた。

 右手が動かなくても、もっと強くて、新しいことができる左手がある。温かな笑みを浮かべながら、ゆったりと自然に語る舘野さんに気負いはなく、「ピアノが弾ける」というだけでうれしいというような印象さえ受ける。だが、その左手と、全身で繰り広げる魂のこもった演奏を聞くと、気持ちが沈んだ時ほど、こみ上げるものがどうにも止まらなくなる。

 舘野さんの演奏する「樅の木」を聴くことは、もうないかもしれない。舘野さんの右手は、動かない。だが舘野さんのために吉松隆氏が編曲したカッチーニの「アヴェ・マリア」のように、それが全く気にならなくなってしまうほど心を打つ左手の名曲の数々が、今も生み出され続けている。