
裏山は生徒にとって馴染みのある場所だったはず
東日本大震災から7年。筆者は震災以降、被災地では主に、学校管理下で児童74人、教職員10人が津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事を取材してきた。
新北上川を遡上してきた“川津波”と海岸から押し寄せた津波がぶつかるように小学校を襲ったのは、地震発生から約50分後の午後3時37分頃のこと。校長は不在だった。
学校現場からの生存者は、わずかに児童4人と教員1人のみ。いまなお、行方不明のままの子どもたちもいる。
子どもたちが待機していた校庭のすぐ裏手には、小走りなら1~2分で逃げられる山があった。その山には、かつて子どもたちがシイタケを栽培していたり、授業で使われたりしたことのある平坦な場所もあった。
あの日、学校にいた子どもたちは1メートルも山に登ることなく、なぜ津波に巻き込まれたのか。児童の遺族たちは、唯一生き残ったA教諭から、我が子の最後の様子を聞きたい、何があったのかを知りたいと、ずっと望んできた。しかし、真相の核心を握るA教諭が保護者の前で自ら説明したのは、震災1カ月後の第1回保護者説明会のときのみで、質問も遮られた。以来、7年経った今も、その真相は、うやむやなままだ。
最初に出会ったのは、教員側の遺族のほうだった
2014年3月から続いている児童の遺族が市と県を相手に損害賠償を求めている裁判も、1審の判決では、学校側の過失を一部認めたものの、現在の控訴審に至るまで、唯一学校側の職員として生き残ったA教諭の証人尋問は見送られてきた。今年4月26日には控訴審の判決も下されるが、真相の核心は見えてこない。
大川小に関わったのは、偶然のいきさつだった。震災直後から石巻市に入っていた筆者は、大川小の惨事の噂を聞き、4月初頭に被災校舎を訪ねた。
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