フィリピンのスーパーで三陸の水産物を売り込む、阿部長商店の阿部泰浩社長(右)。
「震災が新たな挑戦のきっかけを作ってくれた」
宮城県気仙沼市を中心に魚の加工業やホテルを営む阿部長商店の阿部泰浩社長は震災後の7年間を振り返る。
生鮮カツオの水揚げは21年連続で日本一を誇る気仙沼港だが、「全体の水揚げ量は震災前の7割程度」(阿部社長)。気仙沼市の人口は震災前の7万4247人(2011年2月末)から直近では6万4821人と1万人近く減っている。
震災でほぼすべての工場が全壊した阿部長商店(2011年4月3日配信記事「それでも海のリスクと共に生きる」参照)だが、直後に阿部社長は「誰もクビにはしない」と宣言。家が遠くなって通勤が困難になり退職した社員はいたが、およそ700人を超える従業員の雇用を守り続けた。すべての工場が再稼働するのに3年かかったという。
復元ではなく、復興──。
東日本大震災の発生直後、津波で壊滅的な被害を受けた工場前に立つ阿部泰浩社長。自宅も津波に流されていた。
過去を超えるための挑戦、今月末に新たな工場が完成する
過去を超えるための挑戦として、阿部社長は今春、新たな事業を始める。それが、イスラム教徒向けの水産加工品の輸出だ。今月末に専用工場が完成、20人がここで働くことになる。作るのは魚肉ソーセージ。イスラム教徒は戒律によって豚肉を食べることはできない。ただ鶏肉や牛肉を使ったソーセージは人気だという。
健康志向の高まりもあり、魚肉を活用した戒律に合う「ハラル」食品として売り出す。断食月「ラマダン」が明ける6月下旬からサウジアラビアなど海外で本格的に発売する。
東日本大震災が発生する前、阿部長商店の大船渡の拠点における加工作業の様子。ロシア向けサンマの加工が盛んだった。魚食文化が広まりつつある海外へ販路を拡大し、水産業を「儲かる産業」へと変革している途上だった。
水産業の衰退に危機を感じていた阿部社長は、震災前から海外に輸出をしていた。中国やロシアなど、魚食が拡大する国や地域に輸出し、拡大する矢先に震災が発生。福島の原発事故の影響から、輸出先の国や地域から規制がかかって売れなくなってしまった。ただ、そこで音を上げないのが阿部社長だ。インバウンドや海外での日本食ブームを追い風に、三陸の地域が一丸となってシンガポールやインドネシア、タイ、フィリピンなど東南アジアに水産加工品を輸出。自らも足を運んで三陸の水産品を売り込む日々だ。
阿部長商店の売上高はようやく震災前の水準にまで戻ってきた。ただ、震災前と同じ事業ではまだ7割程度に過ぎない。残り3割は震災後に手掛けた事業が埋めているという。
「震災前を超えよう。そこが1つの節目だ」
ハラル食品などの新たなチャレンジが、阿部長商店に震災前を超える売り上げをもたらそうとしている。ただ、そこは通過点に過ぎない。日本の水産業を復興させるという、大きな目標があるのだから。
3月11日で東日本大震災から7年を迎えます。被災地の復興が進む一方、関心や支援の熱が冷めたという話もあちこちから聞こえてきます。記憶の風化が進みつつある今だからこそ、大震災の発生したあの時、そして被災地の今について、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
(「3.11から7年…」記事一覧はこちらから)
Powered by リゾーム?