しかし、統幕長からの命令を待っていては、救える命が救えなくなってしまうかもしれません。「どの連隊が出動可能か」「どれだけ出せるか」といった確認のやりとりを陸自、海自、空自のそれぞれとして調整する必要があるからです。

 私がとった行動は「越権行為」「超法規措置」として処分されてもしかたありません。頭の片隅で辞任の弁まで考えました。「大臣からお叱りを受けるならば、大臣を補佐する幕僚としては失格です」と。しかし、先ほど申し上げた理由から、私の一存で部隊を現場に出すことを決めました。

阪神・淡路大震災の言われなき批判をそそぐ

なぜ、そのような決断ができたのですか。

火箱:一つは、1995年に起きた阪神・淡路大震災での苦い経験です。「自衛隊が現場に到着するのが遅かった」と批判を受けました。我々としては「言われなき批判」なのですが、我慢するしかなかった。

言われなき批判とは。

火箱:当時は、災害が起きても、都道府県知事からの要請がなければ部隊を派遣してはならない、とされていました。当時、第3師団はすぐに姫路や福知山の部隊などを神戸に向かわせていました。しかし、要請がないので神戸に入ることはできず、手前で待機することになった。そうこうするうちに道路は渋滞し、要請が出た時には動きが取れない状況に陥っていたのです。

 もう1つは能登半島地震の経験です。2007年3月25日に、能登半島を震度6の地震が襲いました。私は当時、能登半島をカバーする第10師団(名古屋市守山)の師団長。異動が決まって自宅で荷物を整理していると、家が大きく揺れた。とっさに「震源が近ければよいが、震源が遠ければ、現地は大変なことになっている」と考えました。

 自衛隊では震度5弱以上の地震が起きるとカメラを積んだヘリコプターが情報収集のため自動的に飛び立ちライブで映像を送るようになっています。よって震度5を超える地震は非常に大きな地震なのです。それが震度6。大きな被害が起きているのは間違いありません。

 すぐに走って駐屯地に行き、金沢の連隊を出動させました。金沢の連隊長もたまたま異動が決っており、翌日には離任式が予定されていたのですが、「離任式などない。すぐに出ろ」と命じました。

 間髪入れずに出動した偵察隊が、走行できない道の情報などをいち早く的確に伝えてくれたので、無駄な動きをすることなく救助に向かうことができました。

 この時の命令は師団長としての正規なものです。阪神・淡路大震災の教訓から自主派遣が可能になりました。