芋焼酎と言えば、当然のことながら芋臭いのが特徴だ。ところが、霧島酒造が開発したのは、自己否定につながりかねない「芋臭くない」焼酎。後の起死回生につながる強力な武器は、商品開発思想のコペルニクス的転回から生まれた。

 黒酢、黒ゴマ、黒豚──。1990年代後半、南九州産の「黒商品」が脚光を浴びつつあった。健康に良いとの認識が広がったうえ、どこか高級感を醸し出すネーミングが消費者の心を捉えたことが、人気に火が付いた原因だった。

 ひそかに鹿児島県北西部でも「黒」の焼酎が話題を呼んでいた。熊本との県境、伊佐市にある大口酒造の「黒伊佐錦」だ。当時は大半の蔵元がすっきりと仕上がる白麹を用いて仕込んだが、味に深みやコクを出せる黒麹の商品が地元の酒飲みに受けた。発売は87年。10年近く過ぎて市民権を得つつある状況を見て、霧島酒造社長の江夏順行にあるアイデアが芽生えた。

 「黒という新しいカテゴリーを本格的に作り、戦争を仕掛ける」。こうして「黒霧島」開発の火蓋が切られた。

 営業部隊は冷ややかだった。「今さら芋焼酎は売れない。いいちこが象徴するように、時代の流れは『脱芋』『脱九州』。戦略商品を作るなら麦や米の焼酎に力を入れるべきだ」。最新の販売動向を肌身で知るベテラン営業マンは東京など大市場での販売強化を主張した。

 若い3代目の順行と弟で専務の拓三を前に一歩も引かない古参社員たち。そうした声に応え不本意ながら麦や米焼酎の開発を検討しつつも、順行は「黒い芋焼酎」の開発を社内の特命チームに託した。その一人は、先代社長の順吉に薫陶を受けた奥野博紀だ。

黒霧島を開発した当時のブレンダーの奥野博紀。霧島酒造の焼酎は良質かつ豊富な水が支えている(写真=上:小森園 豪)

 奥野は地元宮崎大学で微生物を学び、霧島酒造に84年入社。入社当時は焼酎が一滴も飲めなかった奥野だが、入社1年目から順吉の補佐に抜擢された。「ブレンダー」の見習いである。

 実は、先代の順吉が社長室をもぬけの殻にしたのは機械作りに加え、75年から焼酎のブレンドに病み付きになったからでもある。焼酎は同じ工場で造っても、貯蔵や熟成の過程で風味が変わる。複数のタンクからサンプルを持ち出し、自らの嗅覚と味覚に頼って最適なブレンド比率を見つけ出す。焼酎の品質を均一化するため、霧島酒造では、業界では珍しく、そんなブレンド工程を早くから取り入れていた。

 奥野は順吉とともに、多い日で1日100種類のブレンドをこなした。順吉が理想とする「あまみ、うまみ、まるみ」を兼ね備える商品を目指し、最後はピペットで0.001%単位の風味を整えた。順吉の死後は奥野に業務が引き継がれ、ブレンダーとして独り立ちしていた。

数百回超える調合で理想の味

 奥野をフォローしながら、開発の陣頭指揮に立ったのが、専務の拓三だ。

 「芋焼酎と言えば、『鈍くさい』ですべて終わる。これを都会の人向けにどう洗練させるか。『黒』だけでなく味も重要だ」

 拓三は、黒麹による伝統的な焼酎造りが一部残っていた鹿児島県の離島に飛び、身分を隠して小さな蔵元を訪ねて回った。そして、イメージに近い理想の銘柄を偶然見つける。1本購入して宮崎の本社に戻ると、奥野を探し出して机の上に焼酎をどんと置いた。

 「ここにとてもおいしい焼酎がある。この品質に近づけてほしい」。奥野は黒麹や酵母を数種類試し、数百回を超える調合を繰り返す。果てにたどり着いた風味は、芋焼酎の固定観念を覆したものとなった。

 芋の香りは従来に比べほぼ半減。その代わりに甘みが増し、後味の飲み口もすっきりしていた。芋焼酎メーカーとして自己否定につながりかねない「芋臭くない」焼酎。だが、ここで拓三は発想を思い切って切り替える。芋焼酎だから芋臭くないといけないという考えを捨てたのである。

 「例えば、食事の邪魔をしない食中酒の位置付けで売り込めばいい。女性や酒が苦手な人も食中酒として楽しめる。そして斬新な『黒』。そんな芋焼酎はどこにもない」

 こうした拓三の理念に呼応したのが研究開発を担う取締役の高瀬良和らだ。「うちの焼酎は風味が濃くなる鹿児島の蔵元と違い、もともと軽快な味わいになる。飲んでも飽きがこない」。

「芋臭くない焼酎」なら
女性や酒が苦手でも飲める

 開発を進める上で強みとなったのが工場周辺で湧き出る水だ。拠点を置く都城は霧島と桜島の間の盆地に位置し、火山灰の影響で水はけが良いシラス台地として形成された。地下150mに40億トンとも見込まれる水が自噴し、霧島酒造は先代の順吉が55年に掘削に成功。適度なミネラルと炭酸ガスを含む水が存分に使えることは、新しい芋焼酎を作る上で大きな助けとなった。

 こうして商品開発を終えたものの、販売までにはもう一悶着あった。ラベル柄だ。拓三がインパクトを重視し黒に金地を提案すると、営業側は「葬式みたい」と猛反発。社内は紛糾し「商品販売自体を中止すべきだ」との声まで出たが、拓三は自分の考えを貫き、黒霧島が世に生まれた。98年6月のことだ。

 最初はあまり売れなかった。手応えを感じ始めたのは発売から1年が経過した頃だ。まず反応したのは女性客だった。高瀬が宮崎県庁を所用で訪ねると、旧知の女性職員から「黒霧島、おいしいですね」と声をかけられた。営業部隊が都城のスナック街で集めた声にも同様の傾向が見え始めた。

 「芋焼酎は苦手だが、芋臭くない黒霧島なら飲めます」

 様々な場所から寄せられる顧客の声に、社内で「いけるかもしれない」との期待が芽生える。県外の売上高比率を4分の1から3分の1に高める目標を新しく設定。2001年度の販売量は1000万本の大台を目指すことも決めた。

 新たな武器を手に、霧島酒造は地元の宮崎から出て戦に挑む覚悟を固めた。向かう先は九州最大の酒販戦国区、福岡だった。

全国制覇を支えた戦術 2――商品開発
トレードオフ・マトリックス

 霧島酒造の全国制覇のカギとなった黒霧島。ポイントはトレードオフ(二者択一)関係を打ち破ったイノベーションにある。その構図はトレードオフ・マトリックスで説明できる。K.I.T.虎ノ門大学院の三谷宏治教授は「上図の黒霧島が現在いるポジションは実現困難で誰も手を出さなかった。そこにあえて進んだことで他社が追随できない価値を持った」と指摘。もともと、芋焼酎は各蔵元で細々と作られ、芋の香りに自らの存在価値を認めていた。それを打ち破ったのが図の左上に位置する「森伊蔵」「魔王」「村尾」など「幻」と呼ばれる焼酎だ。芋の香りを抑え上品な味わいで人気が出た。しかしここに進出したメーカーの多くは希少性にこだわり、大量生産には関心がなかった。一方、今までの芋臭い焼酎のまま生産量を増やしたのが図の右下に位置するメジャーメーカーだ。

 「従来の芋焼酎」から脱するには、芋風味を弱くするか、大量生産するか、どちらかの選択しかなかったのが業界の構図。この2つはトレードオフの関係にあった。霧島酒造はこれを結果として否定し、「芋臭くないメジャー焼酎」を作り出すことに成功した。

日経ビジネス2014年11月10日号 32~33ページより

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