2007年9月、大丸は松坂屋ホールディングスと経営統合した。数百年の歴史を持つ2つの老舗百貨店をどう融合させたのか。奥田氏は統合作業を通して、「スピード」を最も重視したと語る。

(写真=村田 和聡)
奥田 務(おくだ・つとむ)
1939年津市生まれ。64年に慶応義塾大学法学部を卒業後、大丸(現・大丸松坂屋百貨店)に入社。1年9カ月の米国留学後、80年に大丸梅田店開設準備室企画課長に就く。91年大丸オーストラリア社長に就任し、97年から大丸社長。2007年の大丸・松坂屋統合でJ・フロントリテイリング社長兼CEO(最高経営責任者)となり、2013年相談役に就く。

 2006年11月のことです。同年9月に松坂屋ホールディングス社長に就いた茶村(俊一)さんが、私のところにいらっしゃいました。茶村社長が直接訪ねてこられるのですから、何かの提案があるのだろうと感じていました。

 「奥田さん、いかがでしょうか」。こう切り出した茶村社長は、百貨店不況を乗り越えるために松坂屋と大丸が協力できないかと提案されました。私はこう応じました。

 「やるんだったら、資本にまで踏み込んだ企業統合しかないと思います」

 日本の百貨店業界は過去に何度も大手が業務提携をしてきました。ですが、消費者の百貨店離れが深刻化する中、生ぬるい提携や株の持ち合いで難局は乗り切れません。シビアなようですが、私の率直な思いを伝えました。

 当時の松坂屋の岡田(邦彦)会長や茶村社長も、私と同じ危機感を抱いておられたのでしょう*1。一気に話が進み、2007年3月に大丸と松坂屋は企業統合を発表しました。業界再編の口火を切った、と当時は大々的に報じられたものです。

 私は随分前から日本の百貨店業界で、いずれ再編・統合が起こると感じていました。市場のパイが縮小し、競争が激化すれば、再編や統合は避けられない。一般的な市場原理です。

 米国では私が留学した1970年代後半に黄金期を迎えた百貨店が、その後の市場停滞を機に再編・統合へ突き進みました。日本にもいつかは同じ波が来る。その時は主導権を持って臨みたいと思っていました。前回お話しした経営改革はそのためのものでもありました。

 そもそも大丸と松坂屋の間には、浅からぬ縁がありました。両社は過去にも商品券の交流や肌着など実用衣料の共同仕入れを実施していた*2。そのため松坂屋は赤の他人ではなく、ある種の親近感を持っていました。2社とも呉服屋出身で歴史も長い。大丸は大阪、松坂屋は名古屋という地方都市を拠点にしていて、企業風土や社風もある程度似ていました。

 統合に向けて、まずは最終責任者を明確にすべきだと思いました。統合では連日、様々な決断を迫られます。誰が意思決定者か分からなければ混乱は必至。社員は誰が最終決断をするのか必ず見るでしょう。責任者が明確でないと、統合がうまくいくはずはありません。

プロジェクトチームは作らない

 口幅ったいですが、当時は大丸の方が売上高や利益、店舗数が多かった。そこで私をCEO(最高経営責任者)にしてほしいと伝え、認めていただいた。そして2007年9月、J・フロントリテイリングのトップに就きました。

 企業の統合で経営者が最も重視すべきことは何だと思いますか。答えはスピードです。

 企業統合では、いち早く成果を出さなくてはなりません。「鉄は熱いうちに打て」という言葉通り、互いの気運が高いうちに一気に進めないとモチベーションが下がってしまう。何より怖いのは、1つの企業の下に2つの企業文化が根づくことです。いびつな環境が統合後の社風となれば、それこそ改革は難しい*3。「3年で片をつける」。そう心に決め、スピードを最優先して統合業務を進めました*4

 スピードを優先するために、私はいくつかのルールを決めました。

 まずはプロジェクトチームを作らないこと。日本企業の意思決定の遅さの1つの原因が、プロジェクトを作ることにあります。何かというとプロジェクトを立ち上げて話し合う。ですが、これでは現場が無責任になります。そこで一切プロジェクトを作らず、すべて通常の業務ラインで話をするように要請しました。財務は財務担当、営業は営業担当が議論を重ねる。そこで出た結論に対して、私が直ちに可否を決める。これだと話が一気に進みますし、何より現場が当事者意識を持ちます。

問題:大丸と松坂屋の縁は深い。かつて大丸は、ある殿様に気に入られ、松坂屋が覇権を握る地域に殴り込みをかける。大丸を支えた殿様は誰か。

  • 紀伊藩主から将軍に大出世
    徳川吉宗
  • 幕府の質素倹約政策に反抗
    徳川宗春
  • 維新後は静岡で余生を過ごす
    徳川慶喜

(答えはこちら

 各担当者には議論に際してこう伝えました。「決してミックスさせないこと」。システム部門などの統合では、どうしても現場の担当者が、2社の長所を混ぜて“いいとこ取り”をしようとします。ですが業務運営やシステムは、1つの思想に基づいて構成されています。異なる思想で作られたシステムを、パーツごとに寄せ集めても、必ず破綻が生じてしまう。

 そうではなく、どちらを残すべきかを徹底的に議論し、まずは片方の方式を基に統合すること。そしてオペレーションが根づいた後で、捨てた方の良いところを修正して部分的につけ加える。これを大前提としました。

 それでも百貨店の基盤となる情報システムの統合は散々もめました。皆さん怖かったのでしょう。大丸、松坂屋とも担当者は「3~5年はかかる」と訴えます。しかし、これでは全く話にならない。「何を言っているんだ。責任は全部私が取るから思い切ってやれ」と叱咤したものです。松坂屋から見れば、「このおっさんは何を言っているんだ」と思ったことでしょう(笑)。しかし結局、1年でシステム統合を終え、問題は何も起こりませんでした*5

スピードを最優先した統合作業
大丸と松坂屋の企業統合の流れ

統合の要は人事制度の一体化

 あらゆる統合作業の中でも特に気をつけたのが人事制度です。2回目でもお話しした通り、私は大丸時代の改革で、学歴や経歴、性別、年齢を問わない適材適所の人事を進めました。統合でもこれを貫き、大丸と松坂屋の人事制度を一体化することを急がせました*6

 そもそも企業で働く人は、誰でも給料や昇進を気にしています。人間はある面では非常に現実的ですから、賃金や処遇は労働意欲の根幹でもある。同じ仕事をしているのに、出身会社が違うことで給与や処遇が変われば、誰だってモチベーションが下がるでしょう。

 同じ仕事をするなら同じ給料を払い、同じ処遇にすること。そのために人事だけは、大丸、松坂屋のそれぞれの過去の仕組みをご破算にしてゼロから新たな制度を作りました。1つの組織体系が出来上がったら、大丸出身や松坂屋出身など関係なく、その業務に最適の人材を選ぶ。周囲の誰もが「なるほど、あの人なら」という人材を、積極的に登用しました。

 私は会社の人事はできる限り公平にすべきだと考えています。人間はどうしても、「好き嫌いで人事をやっている」と思ってしまいがちです。ですから極力それを排除し、きちんとやった人が遇される環境を作りました。その人がどれだけ企業に貢献したかに尽きる。

 企業統合からわずか1年半後の2009年3月には、人事制度も一本化しました。

2007年3月、当時大丸会長の奥田氏(右から2人目)は、松坂屋との経営統合を発表した(写真=共同通信)

 統合時、松坂屋の人々が特にショックを受けたのが大丸の営業改革でした。大丸では、私が社長に就いてから改革を続けてきましたから、徹底した低コスト体質になっていた。ですが松坂屋は後発です。まだまだムダが多かった*7

 そこで、統合と同時に大丸のコスト管理のプロを松坂屋に送り込みました。コスト管理に厳しい人物なので、大きな軋轢が起こるのではないかと危惧しましたが、松坂屋側の皆さんは、彼の言うことを忠実に進めてくれた。

 最初は驚いたのでしょうが、どんどんコストが落ちて赤字が減っていく。大丸のやり方を進めると利益が上がると分かったんです。繰り返しますが、改革は、利益が目に見えて上がると社員がついてきます。すぐに結果が出たので無用な軋轢は起こりませんでした*8

 加えて、私はコストを削る代わりに必要な投資はどんどん進めました。大丸の大型店は定期的に5~6年に1度、大改装をしていました。一方の松坂屋は、資金の問題もあったのか、店舗の改装が遅れていました。私は、必要な投資をし、社員の処遇も上げていきたい。みんなが一生懸命やれば必ずそれに報いる。松坂屋の改装も進め、私の思いを実現したことも求心力を高めるのに一役買ったと思います。

 経営者の役目は数字や行動で社員に思いを伝えること。統合では特に、結果を出して社員に示さねばなりません。

統合支えた早朝連絡会

 統合作業のスピードを支えたのが、毎日開いた早朝連絡会です。

 これは1990年代、オーストラリア赴任時に生み出した仕組みでした。当時私は、国籍や民族、宗教、文化が全く違う社員を束ねなくてはなりませんでした。人間は、顔を合わせていなければ疑心暗鬼になる生き物です。これではコミュニケーションが滞ってしまう。

 そこで毎朝、部長以上が集まってミーティングを開くことに決めました。些細なことから重要なテーマまで、あらゆる議題を全員でディスカッションし、最後に私が決断を下すようにしたのです。

 決断を下した理由もその場で説明します。すると日を重ねるごとに私の考えが現場に浸透していった。トップの判断基準がどこにあり、何を考えているのか。これらが現場に伝わり、私自身も現場の問題を即座に把握できる*9。何よりその場その場で決断を下すので、経営のスピードは格段に上がりました。

 大丸の社長に就いた後もこれを取り入れ、毎朝9時から早ければ30分、長い時は1時間を費やし、役員同士で議論し、決断を下していきました。毎週土曜には戦略会議と経営会議を開き、より重要な議題を決めていきます。

 松坂屋との統合後にもこれを踏襲しました。大切なのは、なるべく早く意思決定することです。議論ばかり繰り返して何も決まらないのでは意味がありません。決断を下すまでは、その問題に関わるあらゆる人たちが大いに語り合う。そして最後に私が決断を下す。

 これによって経営のスピードは格段に上がりました。何より毎日、毎週繰り返すことで、私の考えも浸透しました。大丸と松坂屋という歴史や文化の違いを乗り越えられたのも、両社の幹部が毎日顔を合わせて話し合ったからだと思います。スムーズな統合を支えたカギであり、私にとって最も大きな経営ツールが朝の連絡会でした。

 大丸と松坂屋は、2007年3月に統合を発表し、同年9月に一緒になった。その後、重複する関連会社を順次、一業種一社に統合し、最後に残った百貨店事業を2年半後に一体化して、2010年3月に統合作業を終えました。

 互いに古い歴史を持ち*10、図体だけは異様に大きい企業が、2年半で統合の形を整えることができた。普通に考えればきりのない作業を、計画よりも短期間で終えられたのは、上にまとめたルールや仕組みがあったためです。

答え

大丸は創業間もない頃、京都から名古屋に出る。当時、積極財政を進めていた7代尾張藩主の徳川宗春に気に入られ、贅沢品を販売して黄金期を迎えた。その後、宗春は8代将軍・徳川吉宗に反抗して隠居謹慎させられる。宗春の後ろ盾を失った大丸は、その勢いをそがれ、名古屋から撤退した。

 日本では長い低迷期を経て、あらゆる業界で企業の統合再編が進みました。スムーズに統合を終えた企業がある一方で、矛盾やいびつな構造を抱えたままの企業も多く見受けられます。失敗の大きな要因が、スピードの欠如だったのではないでしょうか。

 松坂屋との統合を終えた私は、続いて百貨店業からマルチリテーラー(総合小売業)へ変えるための改革に乗り出します。プラザやパルコをグループに加え、どんなふうに経営のあり方を変えようとしてきたのか。

 最終回では、企業が永続するためになすべきことをお話しします。

構成=日野 なおみ

*1 2006年1月、村上世彰氏が率いる投資ファンド(通称、村上ファンド)が松坂屋の株式を買い増し、発行済み株式の5.46%を保有して筆頭株主となったことが明らかになった。村上ファンドは一時は9.9%まで株を買い増し、松坂屋は自社株を買い戻す必要に迫られた。こうした事態に追い込まれたことも、大丸との統合の背中を押した。該当本文に戻る
*2 過去の大丸と松坂屋の業務提携では、肌着やワイシャツなど、値頃な実需衣料品を共同で仕入れていた。該当本文に戻る
*3 日本国内でも、大手金融機関など、幾度も統合を繰り返した結果、いびつな企業風土が根づいてしまったケースは多い。奥田氏は、企業統合において、「統合前のそれぞれの企業文化が、ある種のしこりとなって残るととても危険」と繰り返す。企業統合がうまくいったケースとして、JFEホールディングスを挙げる。 該当本文に戻る
*4 J・フロントリテイリングが発足し、統合作業を始めたのが2007年9月のこと。その1年後には世界金融危機が発生し、日本の百貨店業界も深刻なダメージを受ける。この影響で、J・フロントリテイリングも2009年度は大幅に売上高や営業利益を落とした。しかしその後、統合作業が早く終わったため、影響を最小限にとどめることができた。該当本文に戻る
*5 システム統合をスピーディーに終えるため、奥田氏本人がシステム会社の社長に「1年で終えたい」と直談判したという。「うちは精いっぱいバックアップします」と確約を取りつけたことも、スムーズなシステム統合に一役買った。該当本文に戻る
*6 統合直後の新人事制度ができるまでの間、奥田氏は大丸と松坂屋の人事交流を進めた。大丸の梅田店と心斎橋店の店長を松坂屋出身者にする一方、松坂屋の名古屋店と上野店の店長に大丸出身者をつけた。「あれは1つのデモンストレーション」と奥田氏は振り返るが、両社の中核店舗の店長を入れ替えたことで社内の交流が進んだ。該当本文に戻る
*7 オーストラリア赴任から帰国した際、奥田氏が大丸に戻って最も驚いたことが、人の多さだった。同じように、松坂屋との統合後、奥田氏は再び、松坂屋側の人の多さに驚く。大丸で実施したのと同じ改革を、奥田氏は松坂屋でも進めていった。該当本文に戻る
*8 大丸式の営業改革が受け入れられたもう1つの大きな要因として、奥田氏は松坂屋側の経営者の対応を挙げる。「(松坂屋ホールディングスの)岡田(邦彦)会長や、茶村(俊一)社長が大局的な視点を持ち、経営判断の場面でいろいろと譲ってくれたことも大きい」と奥田氏は振り返る。岡田氏は米国に赴任した経験があり、欧米流の合理的な経営に理解が深かったことも一因だ。該当本文に戻る
*9 奥田氏は早朝連絡会のもう1つの役割として、人材教育を挙げる。毎朝、幹部同士で議論をし、最後には経営者である奥田氏が決断を下す。これを繰り返し、企業のトップとして何を基準に、どのような形で経営判断を下すのかを、幹部に繰り返し見せることが、後継者育成の「場」となる。現在のJ・フロントリテイリング社長である山本良一氏も、早朝連絡会などを通して長らく奥田氏の薫陶を受けてきた。該当本文に戻る
*10 松坂屋の創業は1611年。織田信長に仕えた伊藤蘭丸祐広の子、伊藤蘭丸祐道が、名古屋本町に呉服小間物問屋を開いたことから始まっている。その後、尾張徳川家の呉服御用達になる。デパート業界で初めて制服を制定したり、全館土足入場を実施したり、エレベーターガールを配置したりするなど、革新的な試みを続けてきた。該当本文に戻る
日経ビジネス2014年1月27日号 50~53ページより目次