創業家出身の前任者から指名を受け、大丸社長に就いた奥田氏。バブル崩壊で売り上げ減に苦しんでいた百貨店の改革に乗り出す。ビジネスモデルと従業員の職務を明確にし、効率経営を成し遂げた。

(写真=村田 和聡)
奥田 務(おくだ・つとむ)
1939年津市生まれ。64年に慶応義塾大学法学部を卒業後、大丸(現・大丸松坂屋百貨店)に入社。1年9カ月の米国留学後、80年に大丸梅田店開設準備室企画課長に就く。91年大丸オーストラリア社長に就任し、97年から大丸社長。2007年の大丸・松坂屋統合でJ・フロントリテイリング社長兼CEO(最高経営責任者)となり、2013年相談役に就く。

 「もう薄々感じているやろうけど、君、社長やれよ」

 忘れもしない、1996年の暮れのことです。当時大丸の社長だった創業家12代目の下村正太郎さんにこう切り出されました。薄々感じるも何も、私はその前年にオーストラリア店から帰国したばかりです。ヒラの取締役から常務になって1年も経たない私が社長に就くとは夢にも思っていませんでした。

 「(社長に就いたら)いろいろと大変やろうけど、俺の命令だと思ってやりなさい」。返事に窮していると、下村社長はこう迫ります。気迫に押され、社長を継ぐことを決断しました。

ムダで溢れていた90年代の大丸

 オーストラリアから帰国した私は、社内を見てとても驚きました。人があまりにも多いのです。当時の大丸の従業員は約1万人。それでも足りずにパートタイマーを大量雇用し、毎年200~300人の新卒を採っていた。それも全員が一様にコスト意識に乏しかった。

 海外のシビアな環境で経営してきた私にとって、これは非常にショッキングでした。オーストラリアで一緒に働いていた部下たちは「今の半分の人数で運営できる」と口を揃えます。それなのに大丸の社員たちは、「人が足りない」と日々訴えていました。

 時は平成不況の真っ只中。日本経済とともに黄金期を迎えた百貨店業界も、バブル崩壊で急激な売り上げ減に苦しんでいました。もちろん、その状況は大丸も同じです*1

 社長に就任した97年度、大丸は売上高こそ約8700億円でしたが、営業利益は約71億円、営業利益率はわずか0.8%でした。十分な売り上げがあるのになぜ利益を確保できないのか。

 理由は簡単です。会社全体に、いろいろなムダが溢れていたためです。

 その象徴が、当時大丸が抱えていた赤字事業の数々です。通常、事業を存続すべきか否かは傷が浅いうちに判断すべきです。しかし大丸の幹部は、「何とかなる」という根拠のない願望に任せて、ずるずると赤字事業を続けていた。百貨店事業でどんなに稼いでも、赤字事業が利益をすべてのみ込む有り様でした。

 当時の大丸の会計や決算は単体中心です。しかし2000年の会計ビッグバンで決算が連結中心になれば、あまたの赤字関連会社によって業績の悪化は必定。悪くすれば赤字転落の恐れも十分にありました。

 いち早く対応しないと大変なことになる。大きな危機感を抱き、事業再建の“いろは”である赤字事業の整理に着手しました*2。内装や商社などの赤字事業を分社化したり、印刷会社を売却したりして、40近くあった関連会社を半減させました。さらには国内の赤字店を閉め、海外店はすべて撤退し、早期退職優遇措置で約850人の人員を削減しました。

決断を阻む経営者の「甘え」

 繰り返しますが、会社の再建において赤字事業の整理は基本中の基本です。それなのに、多くの経営者がなかなか整理に踏み切れない。

 その大きな要因は経営者の覚悟にあります。赤字事業を整理すれば、先輩経営者の功績に傷をつけかねない。自分の実績を否定する可能性もある。こう思い、多くの経営者が不採算部門のカットを大胆に進められないのです。

問題:「大丸は義商なり、犯すなかれ」。古くから庶民の評判が高かった大丸は、ある動乱の際にも、焼き打ちを免れました。その動乱とは何でしょう。

  • 元与力が救民のために決起
    大塩平八郎の乱
  • 富山県の漁村の主婦が発端
    1918年の米騒動
  • 幕府軍が大敗、慶喜ピンチ!
    鳥羽・伏見の戦い

(答えはこちら

 実は私も、当初は決断が鈍りかけました。ですが、私を指名した下村前社長は当時、こう背中を押してくれました。「『先義後利』*3という社是と大丸ののれん*4さえ守ってくれたら、後は思い切って何でもやってくれ」。この言葉のおかげで、大胆に改革を進められました。そして1年半で集中的にうみを出し、ゾンビ企業を切り捨てて、攻めに転じたのです。

 私は2度の海外経験を経て、外から日本を見る機会を得ました。「鳥の目」で百貨店業界を分析して、「マーケット対応力の弱さ」と「低収益構造」という弱点をあぶり出しました。

 日本の百貨店は米国やオーストラリアと違い、都心部の一等地に資産価値の高い巨大な店を構えます。損益分岐点が高いため、どうしても大きな売上高が必要になる。つまり、海外のように特定の高所得者を相手にするだけでなく、幅広い消費者を相手にしなければ利益が出ない構造なのです。ここで大切なのは、幅広い消費者が求める旬のブランドを揃えること。消費者のライフスタイルは年々カジュアル化し、価格志向が強まっている。それなのに百貨店業界は特有の高コスト体質が邪魔して、人気ブランドを入れられずにいました。

 大丸が再生するにはマーケット志向を高めると同時にローコスト経営を実現しなくてはならない。そこで「最大のお客様満足を、最小のコストで実現する」と掲げ、営業や外商、総務などの後方部門、人事の改革を進めました。

「あなたの仕事は何ですか」

 赤字事業を徹底的に整理してもなお、大丸はムダに溢れた高コスト体質のままでした。問題の根幹は、社員が皆、自分の担うべき職務を把握していないことにありました。

 前回お話しした通り、日本の百貨店には2つのビジネスモデルが混在しています。商品を自力で仕入れて売り切る買い取り型と、商品の品揃えや販売をブランド側に委ねる消化仕入れ型。この2つでは百貨店側の担う業務が全く違いますし、その度合いによっても百貨店側とブランド側の役割分担は違います*5

 つまり業務体系が極めて複雑なために、仕事の責任や権限が曖昧になっていた。その結果、店舗や売り場、社員がそれぞれ自己裁量で仕事を進め、業務にムダや重複が生じて生産性が大きく落ちていたのです。

 最も象徴的なのが、大丸心斎橋店のブランドフロアでした。世界の超高級ブランドが集まるこの売り場は典型的な消化仕入れモデルです。ここでの百貨店側の仕事は、ブランドの組み合わせや導入条件を決め、ブランド側をサポートすることです。そもそも百貨店のバイヤーが、シャネルやルイ・ヴィトンといった高級ブランドの品揃えに口出ししても、聞いてくれるわけがありません。それなのに当時は、この売り場だけでも部長やマネジャー、バイヤーなどがたくさんいました*6

 「あなた、何してるの」。こう尋ねる私に、担当者はあれやこれやと答えます。ですが実態は、ほとんど何もしていなかった。一時が万事、この調子だったのです。

 こんな状況では到底、ローコスト経営は実現できません。社員一人ひとりの仕事を見直す必要がある。そう判断し、「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」*7を導入することにしました。職務記述書とは、社内各職務の内容を詳細にまとめたもののことです。

 例えば営業部門の改革では、150余りある売り場の仕事をすべて洗い出し、業務内容を整理しました。各売り場のスタッフにどんな仕事が期待され、仕事をするためにはどんな能力や組織が必要なのか。買い取りと消化仕入れ、それぞれの売り場で仕事の内容を18に分類し、社員に求められる仕事や権限、責任を明確にしたのです。

 外商部門や総務などの後方部門でも、同じように職務記述書を作りました。すると必要な人員が見えてきます。そこから余剰人員を減らし、ローコスト経営に舵を切りました。

 各職務の仕事を整理したことで新たに見えた業務もありました。例えば、ブランドを横断して買い物する人への対応や高齢化に伴いクルマで訪れる人をサポートするポーター業務などは、改革を通して発見した業務です。余剰人員を本当に必要とされる職務に回せたことも、改革の大きなメリットでした。

“幽霊の正体見たり枯れ尾花”

 改革に着手した当初は相当な反発を受けました。「人を減らせばサービスの質が落ちる」と訴えられたものです。しかし職務分析を通して必要な業務は押さえてありますから、サービスの質が落ちることはありませんでした。

 まさに“幽霊の正体見たり枯れ尾花”ですよ。人を減らせばサービスの質が下がると、誰もが勝手に思い込んでいた。けれど私は100%買い取りモデルのオーストラリアでも、もっと少ない人員で百貨店を運営していました。外を知っていたから思い込みに惑わされず、生産性の高い業務運営体制を構築できたのです。

 職務記述書を活用した改革を通して、かつては約1万人いた大丸の従業員は、松坂屋と合併する直前には約5500人に減りました*8。毎年200~300人採用していた新卒を30~50人に絞っても何の支障もありませんでした。

 職務記述書のメリットはほかにもあります。各職務に求められる業務や能力が分かれば、人材教育や人事評価もクリアになります。会社側は、学歴や性別、年齢に関係なく適所に従業員を配置することができる。つまり、本当の意味で成果主義が導入できるわけです。実際、この改革で大丸初の女性店長や女性部長が次々と誕生しました*9

2003年、JR札幌駅ビルの一角に開業した大丸札幌店(写真=時事)

 改革の1つの集大成と言えるのが、2003年に開業した大丸札幌店です*10。札幌店の売り場面積は約4万5000平方メートル。通常、この規模の店では800~900人のスタッフが必要になります。ですが、札幌店開業時の従業員数は500人弱。それも約半数がパートタイマーでした。それでもサービスの質は落ちず、開業後半年で営業利益は黒字化し、3年足らずで累損を解消することができました。

 日本の企業を見てみると、自動車や電機などの製造業は、緻密に生産工程を管理して生産性を高めています。しかし一方で、サービス業などの第3次産業は各職務が明確でないケースが多いように感じます。特に百貨店業界は各職務の業務内容が曖昧なうえ、同じバイヤーという職務でも企業によって求められる業務内容が全く違う。これが人材を滞らせ、成果主義が根づかない原因となっています。漠然と社員を働かせても、生産性が上がるわけがありません。

経営者の仕事は、言い続けること

 改革を実行するに当たって、最も苦労したのが社員のマインドを変えることです。

 当初は、陰でこう言われたものです。「今度の新しい社長の言うことも、しばらくしたら消えていく。今はじっとして風がやむのを待てばええ」、と。大丸では、過去にも先輩経営者がいろいろな改革を進めましたが、すべて尻すぼみになっていた*11。私も同じだと思われたのでしょう。

 人間は、自分の生活やスタイルを変えたがらない生き物です。ですから私の改革に対して、何らかの反発があることは理解できます。しかし、だからこそ、社員のマインドを変えるには、経営者が断固として思いを貫き、同じ言葉を言い続けなくてはならないのです。

 「私が大丸に籍を置く限り、これは絶対に変えませんよ」。こう繰り返し、何度も何度も同じことを言い続けました。すると徐々に思いが伝わり、社員の方が少しずつ考え方を変えるようになる。根気比べのようですが、言い続けることこそ、改革時の経営者の仕事です。

答え

解説:大丸では、「先義後利」を社是に掲げ、古くから貧民救済などの慈善活動に力を注いできた。これが浸透し、江戸時代の天保8(1837)年、大阪町奉行所元与力らが蜂起した「大塩平八郎の乱」では、多くの商店が焼き打ちに遭う中、大丸だけは「義商」として焼き打ちを免れた。

 打つ手が次々成功したことも追い風でした。社長に就いた2年目から、大丸は増益を続けました。当時、私は組合と協定を結び、営業利益のうち一定の割合を賞与に分配するとあらかじめ決めていました。改革が成功すれば社員の給料も上がる。業績が上がらなければ、誰も私の言葉に耳を貸さなかったでしょう。しかし明確な結果を出したことで、社内の求心力は確実に高まりました。

 「経営は実行、経営は結果」。こう信じて、社員との信頼関係を築けたから、改革が成功したのです。97年度に約0.8%だった営業利益率は、2006年度に約4.1%、営業利益は5倍弱の約340億円に伸びました*12

 低収益構造を脱した大丸が、次に向かったのが松坂屋との統合です。歴史や文化の違う企業とどのように融合していったのか。次回は、企業統合についてお話ししましょう。

(構成=日野 なおみ)

*1奥田氏が社長に就任した1997年、日本国内では消費税率が3%から5%に引き上げられた。高額品を扱う百貨店業界にとって、消費税率の引き上げは向かい風。冷え込んだ消費者の買い物意欲をどう刺激するかは、百貨店業界にとって大きな課題だった。該当本文に戻る
*2「不採算事業の整理によって、社内に良い緊張感が生まれた」と奥田氏は振り返る。それまで社内には「うちの部門は赤字だが、隣の部門よりはまし」と考える甘えがはびこっていた。これを払拭できたメリットも大きかったという。該当本文に戻る
*3「先義後利」の由来は、「先義而後利者栄」(義を先にして利を後にする者は栄える)という言葉。中国の儒学の祖の1人である荀子の「栄辱編」から引用している。大丸創業者の下村彦右衛門が理念として掲げた。「お客様や社会への義を貫き、信頼を得ることで、会社の利益がもたらされる」という意味だ。該当本文に戻る
*4創業当時、呉服屋の「大文字屋」を営んでいた大丸は、○の中に「大」の字をあしらった商標を使っていた。「大という字は、一と人を合わせたもので、丸は宇宙・天下を示す」ということから、天下第一の商人であれという創業者の思いが込められている。該当本文に戻る
*5日本の百貨店では、単純に買い取りモデルと消化仕入れモデルがあるだけではない。百貨店側とブランド側が共同運営し、商品はブランド側が揃えるが、販売は百貨店側が担うなど、多様な取引形態があった。該当本文に戻る
*6日本の百貨店業界の中でも、大丸は早くから海外高級ブランドの導入を進めてきた。例えば1953年には、日本で初めて海外デザイナーと提携。フランスのクリスチャン・ディオールとの独占契約に成功し、同ブランドの型紙を輸入してオーダーメードの服を作っていた。該当本文に戻る
*7日本ではあまりなじみがないが、米国などの企業では一般的に使われている。ジョブ・ディスクリプションには各職務の業務内容のほか仕事の目標や責任、権限、その役職に求められる技術や能力などが詳細に書かれている。会社側がその職務に求める仕事の内容が明確なので、採用活動もしやすい。該当本文に戻る
*8奥田氏が社長に就いた1997年度、大丸単体の売上高人件費率は11.1%もあった。しかし松坂屋と合併する直前の2006年度には8%まで下がっていた。該当本文に戻る
*9奥田氏が進めた人事改革によって、大丸の女性登用は一気に進む。大丸初の女性店長も誕生した。今では梅田店、札幌店、神戸店などの大型店で女性店長が活躍している。該当本文に戻る
*102003年当時、大丸の北海道進出には否定的な声が強かった。そもそも大丸は当時、東京以北に店を持たず、北海道での知名度はほぼゼロ。札幌市内には既に三越や丸井今井が店を構えていたため、開業当初は人気ブランドを売り場に入れることさえままならなかった。だがJR北海道が札幌駅前の再開発を終えると、市内の人の流れが変わった。札幌駅隣に立つ大丸に人が流れるようになったことも、成功の一因だ。該当本文に戻る
*11奥田氏を社長に指名した下村正太郎氏や下村氏の前の社長の井狩彌治郎(いかりやじろう)氏も、百貨店の高コスト体質を是正する改革に乗り出している。「改革の内容は井狩さんや下村さんとさほど変わらない」と奥田氏は明かす。根気強く言い続けたことが改革の成否を分けたと奥田氏は振り返る。該当本文に戻る
*12「奥田くん、百貨店というのはこんなに儲かるのか」。奥田氏が業績の報告に訪れるたび、前社長の下村正太郎氏はこう繰り返して喜んだという。それまで日本の百貨店業界では、誰もが百貨店の経営で約4%の営業利益率を出すことはできないと思い込んでいた。該当本文に戻る
日経ビジネス2014年1月20日号 58~61ページより目次