民族大移動のごとく、起業家やエンジニアが北上し始めた。彼らが目指す先はサンフランシスコ。シリコンバレーは急速にその姿を変えつつある。

 急成長している写真共有サイト「Pinterest(ピンタレスト)」でエンジニアとして働くポール・モレノ氏はつい最近、引っ越しを余儀なくされた。

(写真=Koichiro Hayashi)

 米大リーグの名門、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地、AT&Tパーク球場の近くにあった以前の住まいは彼の大のお気に入りだった。だが、大家が突然、家賃の15%値上げを宣言。モレノ氏はやむなく中心街から外れた住宅街へと引っ越しした。家賃はそれでも月額3000ドル(約31万円)を超える(写真)。

 160年以上の時を経て、サンフランシスコは再び“ゴールドラッシュ”に沸いている。昨年末に上場して注目を集めた米ツイッター、日本にも上陸して決済サービスを展開する米スクエア、さらに今後の成長が有望視されるスタートアップ*1の多くがサンフランシスコに集積を続けている。イノベーションの聖地であるシリコンバレー*2が北に向かって拡大しているのだ。

 かつて金融都市として名高かったサンフランシスコをハイテク産業が支えるようになり始めた。1990年には約8600人だったハイテク産業の雇用者数は、2012年には4万人を突破(「自己革新するエコシステム」に掲載のグラフ参照)。ここ数年の急増で、銀行・金融を一気に抜き去った。それに伴いオフィス需要も高まっている。サンフランシスコ市の賃料は2013年第2四半期までの2年間で50%を超える上昇率を記録した。

 もちろん、広大な土地、閑静な住宅街が広がるパロアルトやマウンテンビューといったシリコンバレーの本家本元とも言える地域は、依然として米フェイスブックや米グーグルの城下町として栄えている。だが、次代を担う新世代のエンジニアが目指すメッカは、サンフランシスコだ。彼らは都市型の生活を好む。

 人が動けば企業も対応せざるを得なくなる。マウンテンビューに本社を構える米グーグル、クパチーノに新社屋を建設中の米アップルは、毎日、サンフランシスコとの間に通勤用バスを走らせる。

 若手エンジニアの多くは西海岸では当たり前の存在であるクルマを持たない。持っていても、通勤には使わない。ピンタレストのモレノ氏も、SoMa*3地区にある米ピンタレストのオフィスへの通勤には公共バスを使う。同氏はクルマの改造が趣味なのでガレージに愛車を1台置いている。だがこれを通勤に使うことはない。

 ピンタレストそのものも2012年7月にパロアルトからサンフランシスコへと本社を移転した、いわば“移住組”。「優秀なエンジニアを獲得できるから」とベン・シルバーマンCEO(最高経営責任者)はその狙いを語る。企業の成長は優秀な人材が支える。だからこそ、さらなる成長を目指す企業はサンフランシスコに集まる。

 2010年3月にサービスを開始したピンタレストはシリコンバレー界隈でも注目株の1つと言っていい。当初、エンジェル*4から500万ドル(約5億2000万円)の資金を調達してサービスを開始した。その後、投資ラウンド*5を重ね、現在では数多くのベンチャーキャピタル(VC)*6から総額3億3800万ドル(約353億円)もの資金を調達している。2013年10月には日本にも支社を設立した。

 サンフランシスコのエドウィン・リー市長は「世界の“イノベーションキャピタル”にピンタレストがお越しいただいたことに感激している」と表明。自身もピンタレストのサービスを利用し始めるという歓迎ぶりだ。

エンジニア・パラダイス

 「日本に戻るつもりはない」

 サンフランシスコに引き寄せられるのは米国内のエンジニアだけではない。ツイッター本社で活躍する日本人エンジニアの大石剛司氏もまた、魅入られた1人だ。

 大石氏は東京大学4年生の時にディー・エヌ・エー(DeNA)の内定を得たのを契機に、エンジニアとしての勉強を本格的に始めた。2008年4月にDeNAに入社した彼は翌年、DeNAが2008年1月に米国に設立していたDeNAグローバルへと出向した。

 「野球をやっていれば大リーグを目指したくなるように、エンジニアにとっての聖地はシリコンバレーだ。自然に憧れを抱くようになった」と大石氏は当時を振り返る。

 ツイッターに転職したのは2011年10月。徹底した成果主義が取られていることに驚いた。

 四半期の最初に立てた自身の目標をどれだけ達成したかがシビアに評価される。周囲からの360度評価も取り入れられている。目標は達成するのが当たり前だ。常に高いパフォーマンスが求められる。

 だが、就業中にランニングに出かける人もいれば、ヨガをしている人もいる。本社にはシャワーが完備されている。ミーティングの時間を除けば拘束されることはない。タイムカードはもちろん、その概念さえも存在しない。昼夜にはおいしい食事を会社が用意してくれるなど至れり尽くせり。自由闊達な環境はエンジニアにとって最高の楽園だ。

 聖地に身を置く大石氏だが、急速な高騰が続くサンフランシスコの家賃には頭を抱える。大石氏も最近、引っ越しを余儀なくされた。家賃の値上がりによって負担が大きくなってきたためだ。そのため、ツイッターから徒歩通勤圏内ではあるものの、テンダーロインと呼ばれる治安の悪いエリアの近くへと引っ越した。「知人の多くは複数人でアパートをシェアして住んでいる」。大石氏はサンフランシスコに住むエンジニアの現状をこう語る。

 脈動するイノベーションを抑えきれないシリコンバレーが、北に向かって伸長している。そして、サンフランシスコが新しいメッカとして注目を集める。これと同時に、起業家やエンジニアがイノベーションを起こすための環境も一昔前と様変わりしている。

ガレージ創業はもう古い

 仕切りもなく、見通しのよいスペースに机といすが所狭しと並ぶ。アップルのノートパソコン「MacBook(マックブック)」を開いたエンジニアが、脇目も振らず、カタカタとキーボードを鳴らしてプログラムを書いている。

 サンフランシスコ中心部にある「Rocket Space(ロケットスペース)」。ここは数多くのスタートアップが集まって仕事をするコワーキングスペース*7だ。複数の異なる企業で働くエンジニアが1つの机をシェアして作業に当たっている。

サンフランシスコ中心街にあるコワーキングスペース「Rocket Space(ロケットスペース)」。各社のエンジニアたちが所狭しと集まり、サービス開発を進める(写真=Koichiro Hayashi)

 このロケットスペースができたのは2011年。これまでに、ハイヤー配車サービスのUber(ウーバー)や、音楽配信サービスのSpotify(スポティファイ)といった注目企業がここにオフィスを構えてきた。

 お金を払えば入居できるわけではない。「週に25社ほどの応募があるが、ほとんど断っているよ」とロケットスペースCEOのダンカン・ローガン氏は笑う。有望と判断されたスタートアップしか居を構えることはできず、その門戸は狭い。それだけ可能性を秘めたスタートアップがサンフランシスコに集まっていることの表れでもある。

 米ヒューレット・パッカード(HP)、アップル、グーグル。シリコンバレーの歴史をひもとくと、創業の地として語り継がれる自宅ガレージが必ず登場する。だが、今の成功物語にガレージは登場しない。ロケットスペースのように、人口が密集した都市で、壁を取り払い、互いの情報を公開し、積極的に交わることで新たな価値を創造するオープンイノベーション*8が成功するための要因と考えられるようになった。

変わり始めたシリコンバレー

 起業のハードルが劇的に下がったことも、起業家やエンジニアの環境を変えた要因だ。

 米アマゾン・ドット・コムやグーグルが提供するクラウドサービスを使えば、サーバーやネットワーク機器を自分で準備する必要はない。機器を保守するエンジニアも不要になり、人員は少数で済む。「ガレージ」のスペースすら不要だ。

 米ネットスケープコミュニケーションズの創業者で、現在は著名ベンチャーキャピタリストであるマーク・アンドリーセン氏は、米ウォールストリート・ジャーナルのインタビューに「ネット系企業の起業にかかるコストは1990年代と比べて100分の1以下になった」と語っている。

 起業家を支援する環境も過去とは大きく異なっている。2005年頃からシードアクセラレーター*9が登場し始めた。VCの一種だが、その出資額はおおよそ2万~5万ドル(約210万~520万円)と少額だ。ただし独自の支援プログラムを用意しており、数カ月間、集中的にサービス開発を指導する。各シードアクセラレーターにはメンター*10が名を連ね、スタートアップにアドバイスする。こうすることで、より市場のニーズに合った完成度の高いサービスへと磨き上げる。

 シードアクセラレーターは最終的にはDemo Day(デモデイ)と呼ばれる場を用意。スタートアップはこの場でVCを前にプレゼンテーションし、追加出資を募る。シードアクセラレーターはいわばスタートアップの家庭教師のような存在と言える。

 全く新しい資金調達の方法が登場したことも、起業家の裾野を広げる動きを支えている。不特定多数の出資者から資金を調達するクラウドファンディング*11だ。ハードウエア関連のスタートアップが初期段階で利用するケースが少しずつ増えている。初期投資がかさむため、VCが出資を躊躇することが多いからだ。

 起業家やエンジニアはスキルを変え、場所を変えた。投資家たちも起業支援の形を変えた。シリコンバレーのエコシステム*12は、その時々の環境に合わせて進化し続けている。

 次章「シリコンバレーがもたらす未来」では、歴史を振り返りながら、シリコンバレーが胚胎している未来を紹介する。

*1 スタートアップ
創業して間もない企業や、開発を始めたばかりの小規模なチームのこと。米国西海岸のIT(情報技術)業界で使われ始めた言葉。日本では和製英語である「ベンチャー企業」という言葉が使われてきたが、IT業界を中心に「スタートアップ」と呼ぶことが増えつつある。該当本文に戻る
*2 シリコンバレー
実在する地名ではない。サンフランシスコ湾南部の渓谷に半導体企業が立地していたことから1970年代初頭に名付けられた。IT企業が集積するサンノゼ、サンタクララ、マウンテンビュー、サニーベール、パロアルト、サンマテオなどの一帯を指す。該当本文に戻る
*3 SoMa(ソーマ)
サンフランシスコ市内の中心街を斜めに走るマーケット通りの南側のエリア。South of Marketを略してSoMa(ソーマ)と呼ぶ。もともとは旧倉庫街で治安が悪かったが、サンフランシスコ市が進めるスタートアップ誘致策によって再開発が進み、治安を回復した。該当本文に戻る
*4 エンジェル
成功を収めて財を築き、第一線から退いた起業家や経営者で、スタートアップに対して出資する人たちを指す。他者が出資した資金を運用するのではなく、自己資金を投資に回すのが特徴。資金を提供するだけでなく、経営や事業に対してアドバイスもする。該当本文に戻る
*5 投資ラウンド
ベンチャーキャピタルがスタートアップに対して投資する段階を指す。最初の投資をシードラウンドと呼ぶ。その後はスタートアップが資金調達を繰り返すたびにシリーズA、シリーズB、シリーズCと投資ラウンドの回を重ねていく。該当本文に戻る
*6 ベンチャーキャピタル
高い成長率が見込める未上場企業に対し、成長を促すための資金を提供する投資会社。金融機関や機関投資家、事業会社などから運用を委託された資金を基に作る投資事業組合(ファンド)を通じて投資する。ハイリスクでハイリターン。該当本文に戻る
*7 コワーキングスペース
複数企業が入居する共同オフィス。仕切りがなく、オープンスペースである点が特徴。運営会社がイベントを開催したり、外部から講師を招いたりして、入居している企業同士の積極的な交流を促す。1席単位で借りられるところが多い。該当本文に戻る
*8 オープンイノベーション
米ハーバード・ビジネス・スクールのヘンリー・チェスブロウ助教授が提唱した手法。自社の技術やビジネスモデル、知的財産を公開し、他社と協業する中で革新的な製品やサービスを生み出す手法。自前主義の対極に位置する考え方。該当本文に戻る
*9 シードアクセラレーター
ベンチャーキャピタルの一種。アイデアを持つ起業家に対して、少額を投資するとともに、完成度を高める助言を数カ月間にわたって行う。投資額は数百万円程度で、株式の所有比率も数%にとどめる。ポール・グレアム氏が率いるYコンビネーターが有名。該当本文に戻る
*10 メンター
特定の領域における知識やスキル、人脈を豊富に持ち合わせ、指導や助言をする人のこと。スタートアップに対するメンターは、起業家として成功を収めた人や、現役の経営者が多い。自らの経験を基に、スタートアップをあらゆる側面からサポートする。該当本文に戻る
*11 クラウドファンディング
不特定多数の人がインターネット経由で個人や組織、企業に対して資金を提供する仕組みのこと。完成後の製品やサービスを優先的に利用できる権利が出資者への対価となる。対価を伴わないものや金銭リターンを目的としたものもある。該当本文に戻る
*12 エコシステム
もともとは生態系を意味する用語。ビジネス界では、異なる事業領域を持つ企業同士が互いの強みを生かして連携し、共存共栄することを意味する。IT業界では形成するエコシステムに参加する企業の数と質が競争優位に直結するケースが多い。該当本文に戻る
日経ビジネス2014年1月20日号 26~29ページより

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