2009年発足の産業革新機構で、初の「出口」案件が決定。日本電子の“お荷物事業”は、2年半で黒字化を遂げた。官民ファンドの事業再生はモノ作り復活のモデルとなるか。

 「何とかこの事業を伸ばしてくれないか」。ある不振事業の売却を模索していた日本電子の栗原権右衛門社長が、すがるような思いで官民ファンドの産業革新機構を訪れたのは、2009年11月のことだった。

 2008年秋の金融危機で業績が落ち込んだ日本電子は当時、赤字が続いていたNMR(核磁気共鳴装置)と呼ばれる分析機器事業からの撤退を銀行団に求められていた。しかし、原子核の共鳴現象によって分子の構造を特定するNMRは最先端の素材開発には必須の分析機器で、日本電子は国内唯一のメーカーだった。栗原社長には、日本からNMRの技術が失われる事態は何としても避けたいという思いがあった。

主力のNMR(核磁気共鳴装置)

 これといった再建策もなく、銀行団があっさりさじを投げたNMR事業だったが、日本から技術が失われてしまうと、リチウムイオン電池や有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)など、産業界がこれから注力する分野の研究開発にも悪影響が及ぶ恐れがあった。


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