(写真:木村 輝)
INNOVATOR 09
鉄道総合技術研究所 超電導応用研究室長
富田 優
1965年福岡県生まれ。93年に鉄道総合技術研究所に入り、山梨リニア実験線の建設プロジェクトで駆け回る。出向を機に超電導の世界を知り、鉄道での利用に向けて奮闘中。

 東京都国分寺市の鉄道総合技術研究所。敷地をぐるりと囲むように敷かれた線路は今、改造工事の真っ最中だ。線路脇の溝に沿って引き直す310mの黒いケーブルが改造の目玉。エネルギーの伝達ロスがない超電導ケーブルで、年内にもこのケーブルを流れる電気で電車を走らせる。

 この実験を仕切るのが超電導応用研究室長の富田優だ。乗り物好きが高じて鉄道総研に入った彼はもともと超電導の専門家だったわけではない。入所して間もない1990年代の半ば、富田は車両メーカーの川崎重工業の工場で車両作りの記録映画を撮っていた。

 富田が配属されたのは、山梨リニア実験線の建設プロジェクトだった。トンネル工事の発破式に出たかと思えば、説明のために、ただただ「国会待機」をする日もあった。山梨県と東京都を往復し、プロジェクトの進行管理をする日々。「新しいことをやりたい」という願いはかなったが、思い描いていた研究者の仕事とは懸け離れていた。

 97年、山梨リニア実験線で走行実験が始まる。2027年の開通が決まったリニアの原型を眺めながら、富田の心は複雑だった。「ここにあるのは先輩たちが作り上げた技術。自分は研究者になったのに何も生み出していない」。

 その直後に転機が訪れる。1998年、国際超電導産業技術研究センターへの出向が決まったのだ。「ついに研究ができる」と富田は喜んだが、出勤初日に研究室のドアを開けた瞬間、目の前に広がる光景に衝撃を受ける。

 そこで見たのは十数人が黙々と乳鉢をすり、超電導の粉体材料を作る姿だった。「私もこれをやるのか」。出向期間はわずか2年だ。周りの研究者と同じことをして、成果を出せる気はしない。富田は途方に暮れた。

リニア実験線と乳鉢の落差

 リニア実験線の姿も頭に浮かんだ。これまでは技術を現実にするために走り回ってきたが、目の前の研究には出口がないように見えた。何をすべきか分からずほかの研究者が捨てた材料を調べていると、データを測り直すたびに性能が悪化することに気づく。

 理由は、通電を繰り返すことによって超電導材料に亀裂が入るせいだった。「これじゃ、永久に実用化なんてできないじゃないか」。富田の研究テーマが決まった。亀裂が生じにくいように樹脂を染み込ませる技術を提案したのをきっかけに、高磁場の超電導磁石の開発、米マサチューセッツ工科大学(MIT)への留学と、超電導の世界にのめり込んでいった。

 一方で、鉄道の研究者らしいことは何一つしていなかった。「鉄道総研はもう私を忘れているだろうな」と富田が思っていた2006年の夏。当時の理事長だった秋田雄志がふらりと米国に訪ねてきた。「調子はどうだい?」とだけ秋田は聞き、MITの施設を見学して別の会議へ。「戻ってこい」とは言わなかった。

 しかし富田は考え始める。学生の頃、「日本の鉄道の競争力を高めたい」と鉄道総研の門を叩いたはずだった。北九州で父が営んでいた機械工具商の跡継ぎを兄と弟に任せ、1人上京したのだ。鉄道で研究を生かせなければ意味がない。帰国を決め、鉄道用の超電導ケーブルを作り始めた。

 秋田の訪問から7年後の今年7月。富田とチームの仲間、報道陣が見守る中で、超電導ケーブルで送電した電車が走った。世界初の実証実験となったこの時のケーブル長は31m。「じーんとした」と目を潤ませる若手の赤坂友幸を微笑ましく思いながら、富田の目は次に向いていた。「もっと長い距離で実用に耐えると示さなければ」。

 日本の鉄道の全長は2万7000kmに上る。年内に始める310mの実証実験でもまだまだ短い。5年以内にどこかの路線の電線を超電導ケーブルに置き換えたい。その電車に揺られる日こそ、富田の本当のゴールだ。

日経ビジネス2013年11月11日号 43~45ページより

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