(写真:的野 弘路)
INNOVATOR 01
LINE社長
森川 亮
1967年神奈川県生まれ。89年筑波大学卒業後、日本テレビ放送網に入社。その後、ソニーを経て2003年にハンゲームジャパン(現LINE)に入社。2007年から現職。小さな頃から音楽が好きで、ピンク・レディーのバックで歌った経験も。今も特技はドラム演奏。

 壁を埋め尽くさんばかりに並んだ顔。LINE社長、森川亮の社長室には、社員全員の名前と顔写真が、組織図とともに1枚ずつ丁寧に貼られている。その数は実に700人分にもなる。

 東京・渋谷の雑居ビルのワンフロアで、30人がすし詰めになって夜昼なく働いていたのは10年前。今では社員の数は20倍以上に増えた。それでも森川は昔と変わらず、社員一人ひとりの名前を忘れず、誕生日に欠かさず手書きのカードを送り続ける。

 「全員の名前と顔を覚えるのは当然のこと」と森川は事もなげに言う。そんな森川を「兄ちゃんみたいな存在。本当の家族のように社員のことを考えてくれる」と評し、本気で慕う社員は1人や2人ではない。

 優しさだけではない。緻密に計算し、時に驚くほど大胆に行動する森川を、幹部たちは「父」のように尊敬する。

 年の瀬も迫った2010年暮れ。LINE(当時はNHN Japan)経営陣は、東京・大崎にある本社の会議室に集められた。そこで森川は大きな決断を伝える。「世界で勝ちたい。今後の開発資源はすべてスマートフォンに注ぐ」。当時LINEの屋台骨だったゲームやポータルサイトはほとんどがパソコン(PC)向け。「それらは凍結でもいい、くらいの話でした」と執行役員の舛田淳は振り返る。

 LINEにおける当時のスマホ向けの売り上げはほぼゼロ。2010年は、まだ携帯端末の出荷台数の8割を従来型が占めていた頃だ。森川の決断は、“振り切りすぎ”にも見えた。

 「儲かっているPC向け事業を捨てるのか…」。少なからずあった社内の声にもかまわず、森川は断行した。

 社員は森川の大号令の下、年明けから「スマホファースト」で動き出した。しかしすぐに東日本大震災が起きる。森川は全業務を停止させ、2週間の自宅待機を社員に命じた。経営陣は子会社のあった福岡に本部を移動。2週間寝ずに陣頭指揮を執った。

 避難する社員に一律10万円を支給し、福岡に来る社員には、家族も含めて宿泊施設も確保。当時ゲーム事業の部長だった加藤雅樹は、森川とともに200組以上の宿泊先を予約した。

 社員との連絡には、自社で運営していたコミュニティーサービスを利用。しかし、これがうまくいかなかった。自社のサービスにもかかわらず、使わない人が多い。結局利用者の多いTwitterが社員同士の連絡を支えた。

 この経験を経て、森川は「コミュニケーション」をサービスで支えたいという気持ちを強くする。

 当時、「LINE」の原型は既に現場で開発が始まっていた。震災を経て、森川はLINEを最優先事項に“格上げ”。開発スピードを上げさせ、震災後約3カ月でLINEを世に送り出した。

 LINEは今年、世界で2億人ものユーザーを獲得。10月31日現在、既に2億8000万人を突破し、年内には3億人に達する勢いだ。2013年4~6月期の売上高は前年同期比4.4倍の128億円と耳を疑うような急成長を実現した。

 森川は、自らの経営手法を「サッカー型」だと言う。今の時代、野球のように、打順やポジション、攻守のルールがある中では、イノベーションは生まれない。ゴールキーパーが得点を決めることさえあるサッカーのような柔軟性と、「個人の考える力」が必要だ。「そうしなければ、変化の激しい時代に完全に置いていかれる」。

 振り返ると3年前の森川の決断がいかに功を奏したかが分かる。森川に言わせれば「ガラケーで負けていたからできたこと」。「イノベーションのジレンマ」に陥る他社を横目に、軽やかにスマホの世界に自らを導いた。

いつも変化が大きい方を選ぶ

 変化が大きい道を選ぶ森川流は、軋轢を生むこともある。当の森川は「極端な決断や厳しい言動をしたことで、たとえ孤独になっても、会社がつぶれるよりマシ」とにべもない。

 だが、実際には変化に伴う軋轢を丁寧に解消もする。ライブドアを買収する前には、当時ライブドアの社長だった出澤剛を何度も食事に誘った。当時のライブドアホールディングスの社長は石坂弘紀。何も傘下の事業会社の社長と会議室以外で話す必要はない。いつも周辺の人をケアするのも忘れない森川の姿に、出澤は「この人とならと安心した」と言う。

 変化を好んで伸びしろがあるものに投資しようとする姿は、森川のキャリアとも重なる。

 1967年神奈川県に生まれた森川は、小学生の頃からドラムやピアノに夢中になった。森川の兄・穣は、森川が机をドラムに見立てて、日がなバチで叩いていた姿を今でも覚えている。高校に入ると「ドラムなどの楽器は、次々とデジタル機器に変わっていった」。

 就職を考えた時、アナログな音楽より、音楽とデジタルを融合できる世界に入りたいと思い、日本テレビ放送網に入社。しかし、インターネットを使ったサービスを始めても、社内は「テレビで十分食っていけるのに、余計なことをするな」という雰囲気だった。

 ソニーなら、と新天地に職を求めたが、ソニーでもまた「内部の壁」が厚いことを思い知らされる。

 そんな時に出合ったのが韓国のNHNだった。ブロードバンド先進国の韓国が生み出すサービスは、米国のモノマネとは違った。この会社で働きたいと思い、2003年日本法人に入社。渋谷の雑居ビルで与えられたのは、中古のパソコンと小さな机。「転職のたびに給料は半分になった」と笑う森川の顔には、後悔の色は微塵もない。

 森川はよく「目標や目指すところなどない」と真顔で言う。闘う相手ではなく、ユーザーを見ていれば、都度答えは出る。「LINEはまだ1合目」。そう言う森川には、生涯ゴールというものさえ存在し得ないのかもしれない。

日経ビジネス2013年11月11日号 30~32ページより

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