CG(コンピューターグラフィックス)と演技を融合させた新たな表現。国際オリンピック委員会を招いた晩餐会で拍手喝采を浴びた。いつか自らの演出でオリンピックを彩る夢を抱く。

(写真:村田 和聡)

 舞台裏に置かれた小さなディスプレーを祈る気持ちで見つめる男がいた。普段とは違う緊迫した空気の中、これまでに体験したことのない重責が両肩に重くのしかかっている。その時、彼が背負っていたのは――「国」。

 東京都は2020年のオリンピック開催地に名乗りを上げた。1964年の東京オリンピック以来56年ぶり。2016年の開催地にも名乗りを上げたが夢かなわず、目下、国を挙げて再挑戦中だ。

 同じく立候補のイスタンブールを東京都知事の猪瀬直樹が批判したと報道されたことで、東京での開催は大きく後退したと言われている。だが、国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員会が視察に訪れた3月、日本では高まる招致熱で確かに沸いていた。

 視察最終日を迎える前日の3月6日、東京・元赤坂にある迎賓館赤坂離宮「花鳥の間」には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。この日は視察を終えた評価委員を公式にねぎらう内閣総理大臣主催の晩餐会が予定されていたからだ。晩餐会は評価委に「東京」の最後の印象を残す最も重要なアピールの機会だ。

 東京都交響楽団による管楽演奏が会場に流れ出し、晩餐会が始まる。首相・安倍晋三による歓迎のスピーチが始まり、猪瀬による乾杯の挨拶もそつなく終わった。

 花房伸行(37歳)は高まる緊張感を隠せず、舞台裏に控えていた。果たしてうまくやれるだろうか。彼にできることはもはやない。後はチームの仲間を信じるのみだ。

 クリエーターである花房が率いるパフォーマンス軍団「enra(エンラ)」はこの日、晩餐会のトリのパフォーマンスを務める大役を担っていた。メンバーは中国武術の全米大会で3度優勝した武道家、世界ジャグリング大会で3位のジャグラー、元ミス・ユニバース・ジャパンのファイナリストのバレエダンサーなど、個性溢れる5人だ。

 城の石垣を次々と飛び越え、大広間を縦横無尽に飛び回る忍者。手裏剣やギロチンの攻撃をかわし、天守閣に上り詰めると、巨大な髑髏(どくろ)の攻撃から姫を救い出す――。舞台に実際に存在するのはパフォーマーだけ。そのほかはすべて演者の背後に投影されたCG(コンピューターグラフィックス)で表現されている。CGの映像にパフォーマーが正確に動きを合わせることで、素手で大きな壁を打ち壊したり、口から火炎を噴出させているように見せる。観客はあたかも映画を見ているように忍者の世界に引き込まれていく。

 この前衛的なパフォーマンス軍団に大役の白羽の矢が立ったのは晩餐会開催日の3週間前だ。花房は夜を徹してCG作品を作り、パフォーマーたちも足のつま先から手の平まで細部にわたる動きの確認を続けた。

 ハプニングは本番当日、迎賓館で開かれたリハーサルで起きた。ジャグラーが2本のハンドスティックで操るディアボロ(こま)を落としてしまったのだ。彼のミスを花房は一度も見たことがない。静寂に包まれた迎賓館の会場に響き渡る鈍い音。本番で「落ちる」ことがあったら…。メンバーのみならず、リハを見守っていた関係者一同に緊張感が走った。

 本番で彼らが打ち立てた金字塔はメディアの報道で目にした人も多いだろう。一部では「忍者ショー」と報じられていたが、彼らのパフォーマンスは間違いなくその日一番の喝采を浴びた。会場から鳴りやまぬ拍手と「ブラボー!」の声。舞台裏に聞こえてくる歓声で、仲間たちが最高のパフォーマンスをやり遂げたと知った花房は、1人、わき立つ鳥肌を抑えられないでいた。

「人ではないもの」に魅入られた幼少期

 今でこそ表舞台に立つ機会の増えた花房だが、幼い頃は全く目立たない子供だった。体が小さく喘息持ち。幼少期は入退院を繰り返し、両親は気苦労が絶えなかった。

 両親は花房が保育園に通っていた5歳の時、1冊の本を何気なく買い与えた。『科学のアルバム きょうりゅう』(あかね書房)。この本が彼の後の人生を決定づけるとは、その時は思いもしなかった。「息子は魅入られるように繰り返しこの本を読んでいた」と母の里美は振り返る。

 小学校に上がった花房は、いじめられて帰ってくることが増えた。泣いて帰ってくる息子に母は気をもみ、昔気質の父・康一は「なぜやり返さない」と叱りつけた。花房は何かにつけては手を上げるこの父が苦手だった。

 一人っ子だった花房は、空想の世界に自分の居場所を求めることが多くなった。「人嫌い」とまではいかない。だが、興味の対象は「人ではないもの」に限られていった。一番のお気に入りだった手塚治虫の『火の鳥』は今も実家に残る。テレビで映画「スター・ウォーズ」が放映されても、感情移入したのはルーク・スカイウォーカーやソロ船長でない。見たこともないエイリアンが彼にとってのヒーローだった。

 小学校も高学年になると少しずつ友達ができ、外に遊びに出かけることが増えた息子を母は心から喜んだ。しかし、すぐに後悔することになった。多摩川の土手沿いに捨てられた猫や犬を抱えて帰ってくるからだ。

 借家だった花房家は息子の拾ってきた動物の飼い手を探すのに追われた。子犬を5匹抱えて帰ってきた時にはさすがに頭を抱えた。体が小さく、器量も悪かった子犬の引き受け手がどうしても見つからず、大家に頼み込んで何とか許可をもらった。鳴き声から花房が名づけた「クー」はその後、亡くなるまでの17年間、花房の無二の親友で居続けた。花房は動物が好きだった。

 小学校時代にノートに漫画を描いては友達に見せていた花房は徐々に絵を描く技術を上げていった。1988年、地元の秋川市立東中学校(現あきる野市立東中学校)に進学。当時の夢は漫画家だ。

 「作品の完成度が明らかに飛び抜けていた。自分が思い描いたイメージを表現することに決して妥協しない子だった」。非常勤教員として今も昭島市立拝島中学校で美術教室の教壇に立つ鳥居浄治は、20年以上前の教え子を鮮明に覚えている。42年間の教員人生で、教え子の作品が美術の教科書に掲載されたのは、花房が描いた2点透視図法を用いた作品だけ。花房は中学校の卒業文集の表紙の絵を描くという大役もこの時引き受けた。

大好きだった恐竜が動いた

5歳の時に両親が買ってくれた恐竜の本を花房は気に入り、何度も何度も読み返した(左)。中学校の卒業文集では表紙の絵を描くという大役を任された(右)(写真:陶山 勉)

 91年、東京都立八王子工業高校応用デザイン科に進学。漠然と、絵が描きたいという理由で進学した花房に待っていたのは工業デザインだった。図面を引き、ウレタンを削ってモックアップを作る日々。絵とデザインの違いが分からず、課題をこなす毎日だった。

 ある休日、友達と出かけた東京・立川の映画館で見た映画に衝撃を受ける。スティーブン・スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」だ。幼い頃、飽かず眺めていた絵本の恐竜が、目の前でまるで生きているように動いていた。両親に買ってもらった絵本とともに空想の世界で過ごした、孤独で豊かな記憶が瞬時に蘇った。映画が終わっても涙が止まらず、しばらくその場を動けなかった。花房がCGと出合ったのはこの時だ。

 高校も卒業に近づき、この先どうしようかと思案に暮れた。強く進路に影響を与えたのは親友、三橋陽興だ。入学時に席が前後だった花房と三橋は気が合った。学園祭で一緒に映画を撮ったこともある。制作物で互いに競い合うライバルでもあった。

 クルマ好きだった三橋の誘いもあり、2人は高校卒業後、カーデザインの専門学校に通い始めた。次々と出される課題をこなすために徹夜を繰り返す日々。あっという間に2年間が過ぎていった。だが、クルマのデザイナーを志望する学生に企業が開く門戸はあまりにも狭い。三橋は知人のつながりで運良く韓国の自動車メーカーへの就職を決めたが、花房は就職先が決まらなかった。焦りと悔しさ。また自分の道を模索する日々が続いた。

 ジュラシック・パークに登場する生々しく動く恐竜。どうしてもあの時の感動が振り払えず、CGの世界へ飛び込んだ。専門学校デジタルハリウッドに入学し、ソフトウエアの使い方を学んだ。クラスで1番になれなければ、もはやクリエーティブの世界に進むのは諦めよう。背水の陣でコンピューターに向かった。

 卒業した花房は、制作会社、レインボー・ジャパン(東京都渋谷区)に就職。当時、同社には映像制作部門があり、テレビ局からの依頼でCGを制作していた。花房が担当したのはテレビ朝日が放映していた「たけしの万物創世記」だ。動物や地形、宇宙などジャンルの異なる相次ぐ発注を、知恵を絞りながら形にしていく作業が続いた。ここでの経験は後に花房の制作の幅を広げた。

 修業を積んだ花房は98年に独立。企業の会社案内のビデオからテレビゲームの動画シーン、新製品の販売促進用の映像と、ありとあらゆる仕事を引き受けた。とにかく食べていくのに必死だった。

 一方で自分の制作も細々と続けていた。時間を見つけては絵や動画を制作し、自分のサイトに公開する作業を続けていた。2006年、こうした作品が目に留まり、あるプロジェクトから依頼がかかる。高い芸術性を備えるファッションショーで注目を集めるブランド「SOMARTA(ソマルタ)」から、映像制作の依頼が舞い込んだのだ。

 商業デザインではなく、映像美を追求できる仕事が舞い込んだのは初めてだった。花房は自分が表現できる絶好の機会を喜びつつも迷った。15分にも及ぶファッションショーの映像制作をこなせる自信がなかったからだ。花房の才能を見いだしたソマルタのデザイナーは諦めなかった。何度も説得を受け花房は引き受けることにした。洋服のデザイナーが意図するコンセプトやキーワードを基に、自由な発想で映像を制作する。曖昧なモチーフから映像を生み出すのは、空想の世界で生きてきた花房にとってはたやすかった。花房が制作した独特の世界観を醸し出す映像は脚光を浴びた。

「KAGEMU」結成、そして「enra」へ

 表現の世界を広げ始めた花房に、2009年、転機が訪れる。今も根強い人気を誇る「KAGEMU(カゲム)」の結成だ。ダンサーの動きとCG映像が完全にシンクロする、今のenraの原型とも言える。異業種交流会で出会ったダンサーと遊び感覚で始めたもので、当初はKAGEMUというユニット名もついていなかった。2009年7月に東京・六本木のクラブ「Super Deluxe」で初めて公演し、動画共有サイト「YouTube」に撮影した映像を公開すると、たちまち口コミで評判が広がっていった。

 2010年の秋、日本テレビは世界中からパフォーマーを集めた特別番組「世界1のSHOW TIME」の2回目の放映を終えていた。だが次のアイデアがない。出場チーム探しに苦慮した番組側は公募に踏み切った。KAGEMUのダンサーが試みに応募してみると、番組制作側は度肝を抜かれた。同番組のディレクターを務めていた井上圭は「何がネタ切れだ、なぜ彼らを見逃してきたのかと思った」と振り返る。金の卵を発掘した番組制作側は毎回、KAGEMUに特別枠を設けて放映した。

 KAGEMUは2012年1月2日の放映をもって解散に至ったが、花房は最後の番組で、「新しいメンバーを加えたい」と日本中にメッセージを送った。

 兵庫県宝塚市の実家に帰省していた和多谷沙耶(28歳)はコタツでミカンを食べながら日テレの番組を見ていた。長年続けてきたバレエで花房が描く世界観の中で舞いたい、表現したい。気持ちよりも体が先に動いた。

 全米武術大会で3度優勝し、2009年に帰国して自らが主催するパフォーマンス集団で演じていた加世田剛(40歳)も番組を見てオーディションを受けに走った。ほかのメンバーも皆、呼応するように集まってきた。オーディションを経て、結成したのがenraだ。

 最近では米国、香港、韓国、インドネシアなど海外からのオファーが一気に増えた。enraが醸し出す独自の世界観は、これまでクールジャパンとして政府が押し出してきた漫画やアニメともまた異なる評価を受け、海外の人たちを魅了し続けている。

 父・康一は世界を股にかけて活躍する息子の姿を見ることはないまま、2010年2月に他界した。花房と父の関係は決してうまくいってはいなかった。しかし、食道ガンで入院していた康一が、誰よりも息子の活躍を楽しみにしていたことを妻の里美は知っている。声が出なくなってからは、面会に訪れた見舞い客や看護師に、息子の活躍を指で差して必死に伝えようとしていた。今、花房の活躍がテレビで放映されるたびに、里美は夫の写真立てを横に置き、一緒に見ている。

 花房には、2人に見せたい夢がある。簡単に実現する夢ではない。だが幼い頃、両親が買い与えてくれた絵本の恐竜を、今なら自由自在に動かせる技術がある。自分が創り出す空想の世界を見事に演じ切る仲間もできた。

 「日本でもしオリンピックが開催されることがあれば、その演出に少しでもいいから関わりたい」。花房は控えめながらに、しかしどこか自信を感じさせる口調で言った。それが花房の夢だ。

=敬称略(原 隆)

花房 伸行(はなぶさ・のぶゆき)
1976年   三重県松阪市に生まれる
94年   専門学校アーバンデザインカレッジ・自動車デザイン科に入学
96年   専門学校デジタルハリウッドに入学
97年   レインボー・ジャパン就職
98年   フリーランスとして独立
2006年   ファッションブランド「SOMARTA」のファッションショーの映像受託
09年   パフォーマンスユニット「KAGEMU」を結成
12年   パフォーマンス集団「enra」を結成
13年   国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員会を招いた公式晩餐会でパフォーマンスを披露
日経ビジネス2013年6月17日号 120~123ページより目次