半世紀に及ぶソ連支配を経て、カネ、ヒトのいずれも失った。失意の底から這い上がる力になったのがインターネット。バルト海のシリコンバレーは、日本の失策を尻目にネット投票を実現した。

 「直近の選挙は子供を寝かせた後、夜10時に家のパソコンから投票しました。5分で終わりましたよ」

 エストニアの首都タリンに住む40代のヤンネ・ファンクさんは、日本ではあり得ない投票の経験について語る。ファンクさんは2児の母で、IT(情報技術)企業で働く忙しい身でもある。食事や家事を終え、空いた自由な時間を利用して投票――。これが世界で最先端を行くネット選挙の姿だ。

(写真:永川 智子)

世界初のネット投票実現

 エストニアは2005年に全国規模のネット選挙を始めた。今までに5回実施しており、国政選挙を含めたネット投票は世界で初めてとされる。「インターネット」と「投票」の英単語を掛け合わせ、ネット投票は「i-voting」として市民に広く浸透している。

 だが、そんな投票形式がどうして実現したのか。ファンクさんは「我々は恐ろしいソ連支配時代を脱した後、予算がない中で新しい国を造る必要に迫られました。その武器がネットであり、様々な電子サービスが普及した成果の1つです」と話す。

 4月下旬。ファンクさんの案内で、タリンを散策した。旧市街全体が世界遺産に登録されるタリンは、中心地を外れるとすぐに自然が広がる。海、森、川…。驚いたのは、どこへ行っても無料のWiFiサービスが当たり前のように利用できることだった。

 エストニア政府によると、WiFiが使える場所は人口1人当たりに換算すると世界最大という。ガソリンスタンドや公共駐車場に機器を設け、その周辺で高速ネットを使える環境を整えた。政府関係者は「ネットへのアクセスは国民の社会的な権利」と強調する。

(写真:永川 智子)

 バルト3国の一角を占めるエストニアは欧州とロシアを結ぶ要衝地に当たり、領有者が度々変わる数奇な歴史を歩む。半世紀続いたソ連支配時代は食料もわずかな黒パンや牛乳だけ。ソ連軍の工場が集積し、強権的な政治体制下で自由な発言は許されなかった。

 1991年の独立後、新たな国家に変革しようと若い世代が立ち上がった。少ない予算と人員を逆手に取り、ITを柱に行政の効率化を徹底。現在のエストニアは「バルト海のシリコンバレー」と呼ばれ、大統領と閣僚が集まる閣議も紙の資料を使わず、電子署名で重要政策を決めている。

 電子行政サービスのカギを握るのが国民の9割超が保有するIDカードだ。専用のカードリーダーに差し込んだうえでパソコンにつなげば、市民は数分で終わる納税申告から薬の処方箋入手まで、多くのサービスに接続できる。

 現在、選挙期間中に上のデモ画面のようなアプリケーションが届き、手順に従って投票する。最近は携帯電話からもログインが可能だ。電子サービスに詳しいICTデモセンターのアンナ・ピペラル氏は「市民は2000年代にIDカードを利用し、オンラインバンキングや公共交通機関を日常的に利用しているため、ネット投票にも簡単に馴染みました」と話す。

ネット投票の専用サイトで、最初に市民が暗証番号を入力(1)。次に候補者を選び(2)、「投票ボタン」をクリックすると(3)、2つ目の暗証番号を入れた後に終了する仕組み(4)(写真:永川 智子)

 ネット投票の手順はこうだ。まずは自分のIDカードを差し込み、4ケタの暗証番号を入れて投票の専用画面に入る。次に政党や候補者の一覧が表れ、誰に投票するかを決める。候補者を決めた後、投票を確定するには2つ目の暗証番号を求められる。それを入力すれば、投票が完了する。

 言い換えると、電子上に選挙の情報が入った小さな封筒が自分宛に届く。その封筒をIDカードによって開封し、投票者を決める。最後に、電子署名の役割を果たす暗証番号を入力して封筒を閉じ、政府に送り返すようなイメージだ。

 ここで気になるのは、投票を巡る安全性の担保である。

 ネット投票は投票所のような衆人環視下ではないため、特定の政党支持者や企業が絡む「見えない圧力」がかかる可能性も否めない。例えば、会社の上司が特定候補者への投票を強要したら、パソコンを片手にした部下が即座に「嫌です」と言えるだろうか。

 こうした事態を防ぐため、決められた期間中に投票を何度でも変えてよい仕組みにした。昼に会社で投票しても、その夜に家で候補者を変えれば、最後に投じたものが確定票になる。

 エストニアはソ連軍に従事する優秀なエンジニアを育てた歴史がある。現在は北大西洋条約機構(NATO)のサイバーディフェンスセンターが置かれ、欧米域内のハッカー対策や危機管理に国を挙げて取り組む。国民が保持するIDカードにも複雑な暗号によるセキュリティーを施し、政府は投票の安全性を担保しているという。

4人に1人がネット投票

 こうした投票形式は急速に普及した。2005年時点では投票者全体の2%だったが、直近2011年の国政選挙は24%に上昇。国民の4人に1人がもう投票所に足を運んでいない。

 大手IT会社を経営する男性も「過去5回の選挙のうち、3回は中東など海外から投票した」という。IDカードとパソコンがあれば、どこからでも投票が気軽に済むため、2011年の選挙では海外105カ国から票が集まった。選挙機会の確保に加え、電子化による集計時間の短縮は市民に好評だ。

 ネット投票の仕組みを構築したエストニア電子投票委員長のタルヴィ・マルテンス氏は「信頼性を高め、簡単に投票できるシステム作りに腐心した」と振り返る。2007年と2011年の国政選挙を比べると、投票率は1.6%上昇。そのうち、若年世代の投票はそれほど変化がなかったものの、45歳以上のネット投票割合が1割近くも上向いた。

 マルテンス氏は「市民に分かりやすい形にした結果、年金をもらっている高齢者や女性の票が増えた」との手応えを口にする。通常の投票所には自宅から30分ほどかかる有権者も少なくない。「数分で安心して投票できる」という評価の定着が投票を後押ししている。

 政党への影響はどうだろうか。エストニアは1院制で、国政選挙は101の議席を争う。基本的には与党・改革党と最大野党・中央党の2大政党が議席を争っている構図だ。

 改革党は市場主義や低い税制を標榜する一方、中央党はロシア系を中心に高齢者の支持層が多い。興味深いのは、改革党がネットを使った選挙宣伝活動にも力を入れる半面で、中央党は支持層の違いもあって消極的とされる点だ。2007年と2011年を比べると、改革党が2議席増やしたのに対し、中央党は3議席減らしている。

 行政コストを検証すると、通常の投票は1人当たり3.6ユーロ(約470円)になるが、ネット投票は1.6ユーロ(約210円)で済むことが分かった。マルテンス氏は「約10年前に米国から絶対に実現しないとの指摘を受けたが、世界中が我々のシステムに興味を持っている」と力を込める。

 地場大手IT企業ヘルメスのタルモ・キーヴィット氏も「それぞれの国で法律や電子政府のシステムが違うものの、ネット選挙のノウハウや経験は他国に伝えることができる」と考えている。

 エストニアはネット選挙を通じ、投票が簡素に済むほか、行政コスト削減や人々の投票行動にも少しずつ影響を与えるという果実を手にした。

尻すぼみの国内電子投票

 選挙は民主主義の根幹を成す。投票を促す仕組みは欠かせない。翻って日本はどうか。今騒いでいるのは「ネット宣伝活動」であり、「ネット投票」ではない。だが、ネット投票を視野に入れた密かな動きも実はあったのだ。

 日本型IT社会の実現を目指し、政府は2000年に「Eジャパン」構想を掲げた。その関連で「電磁記録投票法」を改正し、地方選挙で電子投票ができる試みを取り入れた。

 ただ、電子投票と言っても、この場合はネット投票とは異なる。投票所にタッチパネル式の機械を置き、有権者が紙に記入しないで済む方式だ。地方選挙で効果を見極め、国政選挙に広げる青写真を描いていた。

 電子投票は、事務効率化、開票時間短縮、人件費削減、疑問票減少を狙った。しかし、2002年に導入するや否や、岐阜県の可児市が市議選で大失態を犯す。通称「可児ショック」である。

 事前準備の不足で、選挙当日にサーバーや端末が次々に停止した。富士通系などが開発した機器は異常な温度上昇に見舞われた。投票所で1時間以上も待ち、諦めて帰宅した有権者もいた。投開票結果を突き合わせると、何と集計が6票も合わない。結果、選挙が無効となる異例の事態に発展した。

 当初は数百を超える自治体や多くのIT業者が関心を寄せたが、この事件をきっかけに熱が急速に冷めた。

 京都市は市長選の際に一部の地域で電子投票を継続する数少ない自治体の1つ。同市選挙管理委員会事務局の田中稔彦課長は「国が積極的に進める機運があり協力したが、今は方針が見えない。国に続ける意思がないなら次回から凍結する可能性もある」と話す。

 政府は過去の報告書で、電子投票を3段階に分けて整理したことがある。最初は指定された投票所での電子投票。次に通信を利用し、有権者が好きな投票所で電子投票する仕組み。最後が投票所ではなく、個人のパソコンから投票する段階だ。いわばネット投票に当たるが、日本の場合は肝心要の最初でつまずいて以降、進展はない。

 京都市に機器を提供する電子投票普及協業組合を訪ねた。東京都新宿区内の事務所には実際の機器があり、試しにデモ画面を作ってもらった。

 有権者ごとに投票所で配る「電子投票カード」を機器に入れると、すぐに最初の画面に飛ぶ。「投票してください」という音声ガイドに従って、指で画面を触れて候補者を選べばよい。その間、ほんの10秒。京都市でも1人当たり平均15秒で終わり、高齢者の評判も悪くないという。

 一方、利用する自治体が少ないことから機器コストが高止まりする悪循環を抜け出せない。同協業組合の宮川龍一郎・代表理事は「海外は文明の進歩とともに投票行動が変わるが、日本は電子投票さえも普及が止まっている。投票のインフラを変えないと政治が成熟しない」と厳しい表情を見せる。

 日本は電子投票の議論を放置した中で先進国に比べ周回遅れの格好でネットを利用した「宣伝運動」だけが解禁される。次のページからは、明確な戦略を描けぬままネットに振り回される候補者や企業の現状を紹介する。

日経ビジネス2013年6月17日号 48~51ページより

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