東日本大震災による津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県女川町。旅館主たちが再建したトレーラーハウス宿泊村が軌道に乗り始めた。壁をどう乗り越えたか。被災地再建のモデルケースになりそうだ。

 2013年2月27日。宮城県女川町に建設されたトレーラーハウス宿泊村「El faro(エル・ファロ)」は、宿泊客の予約受け付けで多忙を極めていた。東日本大震災から2周年を迎える3月11日に女川町で開かれる合同慰霊祭に集まる人々を受け入れるためだ。

 エル・ファロの共同運営者の1人である佐々木里子さん(44歳)は「昨年の慰霊祭も、亡くなった町民の親族の方や関係者が大勢いらっしゃいましたが、宿泊場所がなく、近隣の石巻や仙台から通ってもらいました。今年は宿泊村を用意でき、仮設住宅の被災者ともゆっくり過ごしてもらえそうです」とうれしそうだ。

 昨年12月27日の開業から2カ月。エル・ファロは女川町の復興に携わるエンジニアや水産加工場の修理要員、ボランティアなどを受け入れ、順調にスタートを切った。「2カ月で宿泊者は延べ900人。喜んで使ってもらっている一方で、お客様から宿泊所の改善のアイデアを頂きながら手探りでやっています」(佐々木さん)。

 女川町は、2011年3月11日の東日本大震災による津波で、町の8割が壊滅的な打撃を受け、町の人口約1万人のうちの1割の命が奪われた。40万トンに達した瓦礫の撤去がようやく終わろうとしているが、跡地には雑草の生い茂った空き地が延々と広がり、そこにかつて町が存在したことを想像するのが難しいほどだ。

女川町は津波で町の80%が流された。佐々木里子さんが経営していた旅館「奈々美や」は、ちょうど写真中央左側、目抜き通り沿いにあった

流された4旅館が再起

 エル・ファロは女川町沿岸部の中でも、北側の高台に近い清水地区の旧町営住宅跡地にある。青や緑、黄色のカラフルなのコテージ風の宿泊棟や炊事、食堂棟が計30棟。耐寒・断熱設備が十分に整ったモダンな建物だが、床下には牽引用の車輪が設置してあり、よく見てみるとトレーラーハウスであることに気づく。

 宿泊村を運営しているのはかつて町内にあった4つの旅館「奈々美や」「にこにこ荘」「星光館」「鹿又屋」の経営者たちだ。佐々木さんは、女川町の漁港から内陸へ向かう目抜き通りの一角にある奈々美や旅館を両親と3人で経営していた。

トレーラーハウス宿泊村「エル・ファロ」再建にこぎ着けた奈々美や旅館の元女将、佐々木さん(左)。遠藤健一さん(右)も「にこにこ荘」という旅館を経営していた(写真:村上 昭浩)

 震災当日は金曜日。宿泊客にキンキの煮つけをサービスしようと買い出しに行き、3人で下ごしらえしている時に地震が起こった。佐々木さんは小学生の次女を迎えに行くために高台に向かったが、両親は家に残った。地震から40分、佐々木さんは再び車で両親を迎えに行こうとしたが、土煙を上げて津波が迫っていた。「戻れ、戻れ」と指示してくれた対向車は目の前で丸太やブロックと一緒に流されていったという。当時77歳だった父親は死亡が確認されたが、74歳だった母は行方不明のままだ。

 佐々木さんは被災後仮設住宅で過ごしたが、東京に赴任していた夫の助けもあり現在は宮城県石巻市に住む。だが共同運営者であり、同じように旅館を流された星光館の星明さん(78歳)やにこにこ荘の遠藤健一さん(69歳)らは今も仮設住宅に住んでいる。

 瓦礫の中に残された佐々木さんらがおぼろげに旅館業の再建を考え、誰ともなく集まり始めたのは震災から半年後の2011年9月頃だ。

 当時町には、瓦礫の処理のために建設会社や土木作業員が町に出入りしていたが、宿泊施設がないため日帰りの作業を強いられていた。牡鹿半島のつけ根にある女川町へは、最も近い石巻からでも車で1時間弱、仙台市からは2時間かかる。佐々木さんは旅館を再開したいと思う気持ちと同時に、再開すれば十分に軌道に乗るという確信があった。

 震災前、女川町には12の旅館があった。町の商工会職員で、復興を担当する青山貴博氏は「女川原子力発電所の定期点検の作業員や、町が積極的に誘致してきたスポーツ大会の来場者で、町内の旅館の稼働率は常に7~8割あった」と指摘する。旅館再建は、佐々木さんらの家業再開だけでなく、女川町の復興スピードを速めるためにも必要だと認識し始めたのだ。

 だが旅館を再建するためには2つの障害があった。その1つが建築制限だ。宮城県は震災直後の4月7日、女川町や気仙沼、東松島、名取などに、阪神・淡路大震災以降初めてとなる建築制限を実施した。この地域は広い範囲が津波で浸水し、どこで街づくりを進めるのかを決めるには相当な時間がかかる。さらに津波で更地となった場所に、無秩序な乱開発が行われるのを防ぐ必要があった。

 当初の建築制限は2011年11月までだったが、その後も土地区画整理法による制限が続いている。佐々木さんの奈々美や旅館は町内の海岸線から山側へ向かう一直線の目抜き通りに位置していたが、現在も新規建築ができない状況だ。この条件をクリアするために佐々木さんや青山さんが考え出したのが「トレーラーハウス」だった。青山さんは「建築物でなければ建築規制の適用を免れることができる。将来、土地のかさ上げなどで立ち退きを要求されても、トレーラーハウスなら別の場所に移して営業が可能だと考えた」と話す。

 快適な宿泊村を作るためには機密性が高く耐用年数の長いトレーラーハウスが必要で、1台約900万円はかかる。最終的に40台、64室で最大140人が宿泊可能な施設に整備するには、人件費も含めて4億円以上の事業費が必要だ。働き盛りの佐々木さんはまだしも、仮設住宅に住む70代の星さんや遠藤さんにそれほどのローン余力はない。国と県が再建費用を補助する「中小企業等グループ施設等復旧整備補助金」、通称「グループ補助金」の支給が必要だった。

ロフト付きの客室なら1台のトレーラーハウスで最大3人が泊まれる。シングル利用は1泊税込み6300円、2人利用なら1万1000円、3人なら1万5000円、いずれも朝食付きだ(写真:村上 昭浩)

補助金交付に厳しい条件

 もう1つの障害は、そのグループ補助金の支給条件だった。グループ補助金は返済の必要がなく、国が復興事業費の半分を、さらに宮城県が4分の1を支給する。だが適用条件は厳しい。

 中小企業庁と宮城県が公表しているグループ補助金の適用条件を見てみよう。(1)県内の一定の地域内において、経済的・社会的に基幹となる産業群を担う集団であり、当該地域における復興・雇用維持に不可欠であること(2)事業規模・雇用規模が大きく、本県の経済・雇用への貢献度が高いこと――とある。

 津波に流された1つの旅館を再建することが目的では補助金は出ない。旅館だけでなく、地域の復興を担わなければならない。佐々木さんら旅館主や青山さんは、4旅館の事業主を集めて協同組合にする案にたどり着いた。さらに協同組合が力を合わせて宿泊村を建設することで、単体で売り上げや雇用を生むだけでなく、「町全体の機能が戻り、宿泊費、飲食費、買い物、交通などで、年間3億円、復興期間の2019年までの7年間で約20億円の経済効果を生む」という試算を弾き出した。

 佐々木さんらは、万全を期して2012年春頃から国との折衝を開始した。だが、最後の壁はやはりグループ補助金の適用条件の中にあった。グループ補助金の交付は「原状復帰」が建前だ。つまり食堂を再建するためには食堂を、旅館を再建するためには旅館を建てることが原則になっている。「トレーラーハウスは不動産でなく動産だから認められない」「補助金を出しても、移動可能なら町外に持ち運んだり転売されたりする恐れがある」。

 業を煮やした青山さんは経済産業省の担当課長に直談判した。「女川の復興のために旅館を再建しようとする人たちがトレーラーハウスを持ち出したり転売するわけがないでしょう」。

 昨年4月に事業計画書を書き上げ、5月に正式申請。6月、トレーラーハウス宿泊村プロジェクトに「第5次グループ補助金」の指定事業として総事業費4億5000万円の半分を国が、4分の1を県が補助することが決まった。

 昨年12月27日の村開きの日。佐々木さんは集まった人々の前で涙ながらにこう挨拶した。「たくさんの人たちが私たちを支えてくれました。今は何もないこの女川町で、今度は私たちが困っている人たちに光を照らしたい。『エル・ファロ』はスペイン語で『灯台』という意味なのです」。

 被災地復興を目的とするグループ補助金は、これまで延べ5回の公募を実施し、329グループ、総額1973億円(県費含め2906億円)を支援した。だが、恩恵を受けたのは申請数の20%だ。

 被災者が復興に立ち向かうケースは実に様々で、制度が追いついていないのは当然とも言える。福島県では壊滅した老舗の酒造店が、いつか地元で酒造業を再開することを決意して、山形県の酒蔵を買い取って酒造りを再開したが、県内での再建を前提とするグループ補助金の規定に引っかかり、自力再建を強いられた。

 宮城県南三陸町では自動車板金塗装業の復旧が却下された。作業場前の国道はかさ上げ予定が決まらず、補助金の期限に間に合わなかったからだ。岩手県は、工場などの施設を修繕する事業者に上限2000万円を補助する制度を設けたが、全壊や流失の事業者は対象外。被害の小さい事業者が優先され、全壊した方は後回しにされている。

 震災から2年。被災各県はまだ復興の緒にも就いていない。それどころか被災地は制度の矛盾に翻弄されている。3県にまたがった未曾有の震災に対して国の復興支援が画一化するのは致し方ない面もある。佐々木さんをはじめとする女川の旅館主たちは、こうした制度の矛盾をかいくぐり、宿泊村の再建を果たした。制度の柔軟な運用、拡大解釈を促した女川の旅館主たちの再建手法は、ほかの被災地の復興の重要なモデルケースになるに違いない。

(編集委員 小板橋 太郎)

青山 貴博 [女川町商工会職員] に聞く
「観光の町の復興」が大義名分

 宮城県女川町は津波に被災した中心部の低地に新たな宅地を造成するため、山林を切り開いた土を盛る工事を8年計画で行っています。総面積は18ヘクタールを超え、かさ上げの高さは5m以上に及びます。既に震災から2年経過しており、あと6年で工事が完成するのかどうか、疑問符がつきます。

(写真:村上 昭浩)

 ただ言えるのはその間、延べ何十万という人たちが県外から訪れて復興に携わることです。震災で町内にあった12の旅館は、8軒が全壊し3軒が廃業になりました。現在は復興に携わる作業員の方々が仙台市から2時間以上かけて通うケースもあります。その人たちがわざわざ女川に行き来するのに使っている膨大な時間を作業につぎ込むことができれば、復興のスピードは格段に上がるはずです。宿泊施設の再建は最大の課題でした。

 しかし、宿泊の需要があるから、あるいはそれによって復興のスピードが上がるから、という理由だけでは国の補助金を受けることはできないのが実情でした。

 トレーラーハウス「エル・ファロ」が再建のための補助金交付を受けることができたポイントは、もともと旅館業やホテル業を営んでいた4社が個別に復興に向かうのではなく協同組合を設立し、ほかの飲食店などとも手を組んで「町全体の再建に寄与する」という立場でグループ補助金を申請した点です。

 国や県の補助金の考え方は明確で、一個人、一法人には補助はしたくてもできません。それをやってしまったら「俺も、私も」と際限がなくなるでしょう。補助金交付をある程度絞り込むために、「町全体の復興に携わるという目的を持ったグループ」という概念を作り、そのグループの構成員に対しては補助する、という考え方です。

 今回我々が作ったグループ「観光の町『女川』復活プロジェクト」は、旅館業のほか、食堂、仕出し弁当、居酒屋などのサービス業など計12社で構成しています。

 女川町は基幹産業である漁業、水産加工業に加え、近年は観光にも力を入れていました。周辺の自治体にはないような大規模な体育館や競技場を目玉施設にして、スポーツ大会の誘致や交流で町外から人を呼び込む観光立地を目指していたのです。観光立地を支えていた旅館や飲食業の機能を震災前の姿に戻し、女川町全体の復興に役立てるという大義が必要だったわけです。

 女川町ではこのほかにも、漁業や水産加工業を復興させるための「水産の町『女川』復興プロジェクト」(約40社)や、小売店や建設業が集まった「女川町・人の暮らしグループ」(約40社)などのグループが同時期に補助金の交付認定を受けています。

 震災で店舗や工場を失った事業者の立場から言えば、補助金を交付してもらって自分の家業を立て直すことで復興に寄与できるという順番で考えますが、行政はそれとは逆の考え方です。最終的に支援される先は同じであっても、元は国民の血税ですから、有効に、かつ不公平感なく費やされる必要があります。被災者の要望と行政の論理をうまくすり合わせる柔軟な運用の仕方が必要だと痛感させられました。(談)

日経ビジネス2013年4月1日号 108~111ページより目次