写真フィルム市場の急減に直面した富士フイルムホールディングス。だが、事業構造の大転換を進めた結果、より強い会社に生まれ変わった。改革をリードした男が語る骨太の経営論。

(写真:村田 和聡)
古森 重隆(こもり・しげたか)氏
1939年、旧満州国生まれ。63年東京大学経済学部卒業、富士写真フイルムに入社。2003年6月に代表取締役CEOに就任すると、写真フィルムに依存した事業構造の大転換を進めた。

 ピーク時に写真フィルムを含む写真市場で営業利益の7割を稼ぎ出していた富士フイルムホールディングス。だが、デジタル化の進展でフィルム市場は急減、本業消滅の危機に直面した。

 その中で古森重隆CEO(最高経営責任者)に率いられた富士フイルムは事業構造の大転換に着手し、別の会社に生まれ変わった。2012年1月にチャプターイレブン(米連邦倒産法第11条)の適用を申請した米イーストマン・コダックとは対照的だ。

 今から古森CEOの改革の軌跡を見ていく。危機時におけるリーダーの役割が改めて分かるのではないだろうか。

 今でも鮮明に覚えている光景があります。終戦直後の1945年8月、私が暮らしていた旧満州国・奉天市(現瀋陽市)で満州人の暴動が起きました。投石や略奪を繰り返す群衆――。そのまま、家の前にやってきました。

 どうなってしまうのだろう。子供ながらに不安に思って見ていると、父は知人の軍人とともに軍刀を抜き、暴徒と対峙、追い払いました。当時、私は6歳でした。それでも、身を挺して家族を守った父の姿が脳裏に焼きついています*1

 記憶に残る奉天はロシア風の家並みが広がる美しい街でした。父が軍関係のビジネスをしていたこともあり、古森家は比較的恵まれた生活を送っていたように思います。ただ、それも終戦まで。満州人の暴動やロシア兵の略奪を経て、私たちの生活は一変しました。

 その後、翌年9月に日本に引き揚げました。親子4人、リュック1つの帰国です。途中、大連近郊の葫蘆(ころ)島の収容施設で1カ月足止めされましたが、食事は毎日コーリャンのおかゆで…。栄養失調になり、ひどい目に遭いました*2。後でほかの人に聞いた話では、この収容所ではたくさんの子供が死亡した時期もあったとのことでした。

フィルム市場は最盛期の5%

(注:カラーフィルムの世界需要は2000年度を100として指数化。2003年度からのフィルム需要の急減に対して、富士フイルムは以前から取り組んでいる事業を伸ばし、さらに新規事業を加えることで、売り上げを落とすことなく、企業を維持、成長させた)

 幸いなことに、無事帰国することができましたが、戦争で負けたら何が起きるか、負けた後の大変さが骨身に染みて分かりました。敗北は、本当に惨めなものです。

 世の中はすべて戦いです。国と国、企業と企業、あらゆる場面で競争していかねばなりません。困難との戦いであり、自らの弱さとの戦いでもある。

 私自身、経営は真剣による斬り合いだと思っています。後ろにトップが控えているナンバー2は、いわば竹刀による剣道で、失敗しても死にません。でも、トップが負ければ、会社は決定的なダメージを受ける。大将であるCEOは絶対に負けてはならない。

 振り返れば、社長を経てCEOに就任した2003年は危機的な状況でした。上のグラフを見てください。当社の十数年を如実に物語っています。

 カラーフィルムは2000年度をピークに減少の一途をたどりました。特に、CEOに就任した2003年度以降の下げ幅は極めて厳しかった。

 2000年度、カラーフィルムや印画紙などの写真事業は会社の利益の7割を占めていました。それが、毎年2割、3割と減少していくわけです。トヨタ自動車で、自動車の売り上げが年々減少することを想像してみてください。2005年度に写真事業は営業赤字に転落、2011年度の市場規模は2000年度の5%まで縮小しました*3

 その一方で、連結売上高を確実に伸ばしていることが分かると思います。

 2000年度に1兆4403億円だった売上高はピークの2007年度に2兆8468億円に倍増、営業利益も1497億円から2073億円に増加しました。

 その後はリーマンショックや超円高の影響で期待したほどの成長は実現できていませんが、コア事業が蒸発する中、うまく事業構造を替えることができたと思います*4

 事実、2011年度では、デジタルカメラを含めたイメージング関連の比率は15%に落ちましたが、医療用診断機器や医薬品、化粧品、液晶用フィルム、光学レンズが約40%を占めるまでに育ちました。複合機やレーザープリンターなど富士ゼロックスの製品も売上高の45%を稼ぎ出しています*5

 売上高が倍増したのは、2001年に子会社化した富士ゼロックスの存在も大きい。ただ、医療機器や化粧品、医薬品を合わせたメディカル・ライフサイエンス分野の売上高は2920億円になりました。液晶用フィルムなどフラットパネルディスプレー材料事業も1825億円まで育っています*6

 私の期待値はもっと高いですが、売り上げの急減をカバーすべく進めた多角化は当社を間違いなく支えている。この10年をして、私はよく「第2の創業」という言い方をしますが、まさに富士フイルムは生まれ変わりました。

 恐らく、読者の皆さんは中核事業の市場消滅という有事に際して、私が何を考え、どういう手を打ったかという話を期待されているのだと思います。

 当然、次回以降でそういった話はしますが、極論を言えば、危機時の打ち手に奇策はありません。当社は売り上げの縮小した事業では減少幅に応じて固定費を下げ、会社の成長のために新規事業進出などで成長戦略を描きました。これは、誰にでも分かることです。

 では、うまくいくか否かの違いはどこに出るのか。それは、覚悟を決めてやり抜くかどうか。いわば、リーダーシップに帰結する、と私は考えます。

 富士フイルムが今もこうして成長し続けているのは、正しい方向を見定め適切なタイミングで的確な手を打ってきたため。言い換えれば、経営の適切な決断に、技術や人材といった企業の地力が呼応したということです。

高機能材料や医療用診断機器が育った――富士フイルムにおける現状の事業領域

使ったカネは4兆7000億円

 市場の急減に対応するため、2005年度と2006年度に写真事業の主な生産拠点のラインを停止し、世界中の現像所や販売網を一気に縮小しました。こういったリストラ費用だけで2500億円程度を計上しています。リーマンショックの直後の2009年度から2010年度にかけても、間接部門や研究開発部門も含めた全社にわたる構造改革を実施し、約5000人を削減しました。

 その一方、コスト削減だけでなく、液晶用フィルムの設備投資や積極的なM&A(合併・買収)、先進研究所の設立など未来への投資も続けました。

 私が2000年に社長に就任してから2011年までに、設備投資で2兆円、研究開発投資で2兆円、M&Aで7000億円近くを投資しています*7。設備投資や研究開発投資を抑えれば、利益率はすぐに改善するでしょう。ただ、将来の成長の種がなくなってしまう。

 その過程では判断に悩む局面もありました。夜に眠れなかったことも1度や2度ではありません。ただ、私が手をこまぬいていれば、状況はどんどん悪化してしまう。立ち止まっている時間はありませんでした。

 危機を前に、改革や投資を小出しにする経営者は少なくありません。一気に処理しなかったために、傷が深まるというのは往々にしてあります。

 「戦力の逐次投入」がタブーということは、多くの経営者が理解しています。それでも逐次投入に陥るのはリーダーがリスクを恐れているため。いくら優れた戦略を描いたところで、実行されなければ意味はありません。タイミングも重要で、徐々にやったためにうまくいかないことも数多い。

 もちろん、富士フイルムが市場消滅の危機を乗り切ることができたのは、社員が私の決断を理解し、歯を食いしばってついてきてくれたからです。

 私がCEOに就任した当初は経営と現場社員の危機感には温度差がありました。ただ、フィルム需要が音を立てて崩れていただけに、改革に後ろ向きな声はほとんど上がらなかったように思います。私は、社内報やイントラネットを通じて社員にメッセージを出し続け、会社の現状を訴え、社員を鼓舞してきました。

 このように、改革の成否は経営者のリーダーシップによるところが大きい。ならば、経営者は何を意識すべきなのか。改革の具体論に入る前に、リーダーシップや経営に関する私の考えを述べておきたいと思います。

 まず、経営者である以上、負けては絶対にダメです。最近は勝ち負けに執着しないように見える日本人が増えていますが、心のどこかで負けてもいいと思っている人は今すぐにリーダーの座を降りた方がいい。間違いなく、会社やチームを不幸にします。

 そのうえで、どうすれば負けずに済むか、勝てるのか、リーダーは徹底的に考え抜かなければなりません。

経営に模範解答は存在しない

 それでは、負けないリーダーの要素とは何でしょう。リーダーはまず、必要な情報の本質を把握して、その時点の状況を的確に整理、理解しなければなりません。たとえ、不完全でしかない情報であっても、将来の環境動向、トレンドを見切ることが必要です。

 情報とは不完全であり、一部しか見えないものです。すべてが見えた時は誰もが知っていて、もはや価値ある情報とは言えません。リーダーには、早い段階で、物事の背後にある本質的なものをつかむ力が求められます*8

 情報をつかめば、次にどこに行くべきかというビジョン、進路、方向性を示す構想力が必要です。その時に大切なのは、「賢く、正しく」判断する力。そして、賢く、正しく判断した後は、それをやり切る力、すなわち「強さ」が必要になる。

 経営とは、決められた轍(わだち)の上を進むことではありません。毎回、異なる新しい問題が出てくる。過去にコア事業が縮小した企業はたくさんありましたが、富士フイルムのように、それが10年で20分の1まで減った業界はそうないでしょう。私が直面した問題にはどこにも模範解答がありませんでした。

 経営は勝つか負けるかの丁半博打ではなく、80%は成功するという確信をもって進めるべきもの。「80%の確信」といっても20%のリスクは残る。経営判断はタイミングとの競争で、完全な情報を得たうえで決断を下すことなどまずできません。その中で決断するには心の強さが必要です。

 そして、もう1つ大事なのは「優しさ」です。勘違いしてほしくないのは、穏やかでおとなしいという意味の優しさではなく、社員や会社、社会など周囲を愛する力のこと。どれだけ会社のことを考えているか、どれだけ社会と真摯に向き合っているか――。私は誰よりも会社のことを考えてきました。CEOになったのは、会社のことを考え続けたからだと思っています。

 私自身のことを言えば、私は子供の時から「真の実力とは何か」ということをいつも考えていました。敗戦という惨めな経験を通して、「力がなければダメだ」という本質的な悟りを得たからです。

 では、どうすれば真の実力が身につくか。学校の勉強だけでなく、考える力を身につけないといけない。そう思った私はとにかく本を読みました。

 その中の1冊に、高校入学直後に出合った『宮本武蔵』(吉川英治著)があります。刻苦勉励、一生をかけて剣の道を究める。その武蔵の姿に感動した私は、真の実力を磨くために、それまで以上にストイックな生活を送るようになりました*9

 大学時代には、独の哲学者ニーチェの「超人思想」に共感しました*10

 人間とは、もともと強く、気高く、賢く、優雅でかつ自由、崇高な存在である。ところが、そのように本来は気高い獅子であるべきなのに、現実は道徳や宗教、権力者の支配などで飼い慣らされた羊のようになっている。その束縛から人間を解き放て、と。だからこそ、ニーチェは「神は死んだ」と叫んだわけです。

「神は死んだ」と叫んだ学生時代

 自分自身がそう生きたいと思っていたので、ニーチェの思想はピタリとはまりました。その背景には、両親のしつけもあったように思います。

 昔の多くの家庭がそうであったように、我が家のしつけはシンプルでした。

 「正直であれ」「卑怯なまねをするな」「喧嘩に負けて泣くな」「弱いものいじめをするな」「嘘をつくな」「姿勢を正しくせよ」「人様に迷惑をかけるな」。年上の人間と喧嘩して負けて帰ると、親父に逆に殴られて、「もう一回喧嘩してこい」と家を追い出されました。その辺は、ニーチェの言う「超人思想」に重なるものがある。実にいい教育でした。あれで十分です。

 もう1つ、大学時代に熱中したのはアメリカンフットボールでした。

 体を鍛えることは心を鍛えることにつながる――。そう考えた私は東京大学に進んだ後、格闘技を始めました。ただ、あるきっかけでアメフトに関心を持ち、体育会のアメフト部に入部しました。事実、アメフトは私のその後の人生に多大な影響を与えました。

 アメフトは肉体が激しくコンタクトする格闘技ですから、まず「闘魂」がなければプレーできません。次に「力」と「スピード」。激突するうえで力は不可欠だけれども、スピードがなければ通用しません。

 そして、「戦略」と「チームワーク」。アメフトはラグビーと違ってプレーとプレーの合間に作戦を立てるので、戦略の幅が広い。しかも、それぞれのプレーヤーの役割がきちんと決まっている。チームワークのゲームです。

 一般的に、アメフトは戦略のスポーツと言われていますが、いくら優れた戦略を立てても、フィールドの選手に闘志や力、スピード、責任感がなければ戦略は遂行され得ません。こうしてみると、アメフトは企業経営そのもの。アメフトをやれば経営ができるわけではありません。ただ、経営のうえで役に立ったことは間違いない。

 今だからこそ打ち明けますが、30歳くらいまでははっきり言って、会社のために一生懸命働く社員ではありませんでした。会社員が本当の天職かどうか分からなかったからです*11

 ただ、責任ある立場を与えられてから変わりました。与えられた仕事にベストを尽くそう。会社のために懸命に頑張ろうと考えるようになりました。

 その中で、私は小手先のテクニックではなく、真の実力を身につけようと努力してきました。一時の成功ではなく、正々堂々、天下の正道を歩んで勝負する。真の実力で正しく勝つことが大事だ。そう考えるようになりました。

古森氏が幼少期を過ごした旧満州国、奉天駅前の光景。すべてはここから始まった(写真:読売新聞/アフロ)

敗者に称賛される勝ち方を目指せ

 私は営業の社員でしたから、勝つことが大事だと思っていました。しかし途中で、負けた相手からも称賛される勝ち方を意識するようになりました。例えば、いい製品を出して、適正な価格で相手に勝つということです。

 ただ勝てばよいという勝ち方をすると、相手に恨まれるうえに自らが傷つく。ところが、正しく勝てば、相手もフェアプレーで対抗してくる。それを、私の生き方にしようと努めました。

 経営は最終的に数字で示されるものです。ただ、その数字を出すために、社員を動かし、会社の現状を分析し、将来のビジョンを提示し、様々な決断を下し、会社の力を引き出さねばなりません。そう考えると、経営は全人間的なものです。

 いわば、優れた経営者というのは芸術の巨匠と言ってもいいかもしれません。能力だけでなく、心性、オーラ、哲学、情熱、夢など、1人の経営者が持つ全人的なものを駆使して、組織を未来に向けて引っ張っていく。経営とは、そういう作業だと思います。

 いつもの「経営教室」とはかなり違うテイストになってしまったかもしれません。ただ、最後はその人自身の生き方が大きな意味を持つということを申し上げて、第1回を終わります。

(構成:篠原 匡)

*1 その後、父は幼い古森氏に一振りの日本刀を渡した。「よく切れる刀でね。『自分がいなくなったら母と姉を守れ』という思いだったのだろう」と振り返る。父親が軍関係のビジネスをしていたこともあり、古森家には軍人がよく出入りしていた。それもあって、旧日本軍にシンパシーを感じていた古森氏は敗戦に大きな衝撃を受けた。該当本文に戻る
*2 葫蘆島は遼寧省にある島。敗戦後、ここから100万人を超える日本人が引き揚げた。当初、引き揚げは絶望的と思われていたが、中国の国共内戦における国民党支援という米国の戦略的意図もあり、終戦から2年で完了した。蒋介石が率いる国民党軍を華南から華北に輸送、同時に100万人の在満邦人を引き揚げさせる計画だった(NHKスペシャル「引き揚げはこうして実現した~旧満州、葫蘆島への道~」から)。大量輸送に使われたのは米海軍のLST(上陸用舟艇)。荷物はリュック1つと決められていた。コーリャンは中国北部で栽培されるモロコシの一種。該当本文に戻る
*3 特に、2005年度以降の落ち込みが激しく、毎年40%近くも需要が減少した。カラーフィルム市場のピークは古森氏が社長に就任した2000年度だった。 該当本文に戻る
*4 競争条件を揃えるため、2007年度の為替や原材料水準で換算すると、2013年度の予想売上高は2兆8960億円、営業利益は2905億円になる。リーマンショックに伴う需要の落ち込みや強烈な円高、原材料費の高騰で実際の売上高や営業利益は目減りしたが、古森氏が実行した改革の方向性は正しかった。「リーマンショックは誤算だったね。正直、神様はどこまで試練を与えるのかと思ったよ」。該当本文に戻る
*5 2011年度の売上高を見ると、デジタルカメラ、プリント機器、カラーペーパーなどのイメージングソリューションが3227億円(15%)、化粧品や画像診断装置、記録メディア、光学デバイス、フラットパネルディスプレー材料などのインフォメーションソリューションが8878億円(40%)、複合機やレーザープリンターなどのドキュメントソリューションが9848億円(45%)という内訳になっている。該当本文に戻る
*6 富士ゼロックスは、富士写真フイルム(当時)と英ランク・ゼロックスが1962年に折半出資で設立した複写機、複合機メーカー(ランク・ゼロックスはゼロックスの100%子会社)。ゼロックスの経営悪化に伴って、2001年に富士フイルムホールディングスが25%を買い取った。該当本文に戻る
*7 2006年以降、インクジェットプリンター用ヘッドメーカーの米ダイマティクス、医薬品開発製造の富山化学工業、バイオ医薬品受託製造のダイオシンス・バイオテクノロジーズなど30社以上の戦略的M&Aを実行した。時間と技術を買うためだが、M&Aは周辺技術の獲得や市場拡大が目的で、コア技術はなるべく自前技術を貫いた。該当本文に戻る
*8 古森氏は2004年に液晶ディスプレーで用いられるタックフィルムの増産を決めた。新工場設立のための投資額は1100億円。当時は液晶とプラズマディスプレーのどちらが主流になるか、帰趨は決まっていなかったが、限られた情報で判断して、思い切った増産に踏み切った。部材メーカーとしてリーディングカンパニーになったのは、この時の設備投資が奏功したため。該当本文に戻る
*9 古森氏の読書好きは有名。英国を第2次世界大戦の勝利に導いたウィンストン・チャーチル元首相の回顧録、『第二次世界大戦』が座右の書。ミステリーも好きで、ベッドに入ってから寝る前の30分、ミステリーを読むことが楽しみという。「最近は読み始めてすぐに結末が分かる。そういう読み方をしているんだよ。それは新聞も同じ。『なぜか』『なぜか』『なぜか』と考え続ける癖がついた」。該当本文に戻る
10 フリードリヒ・ニーチェは1885年に出した『ツァラトゥストラはかく語りき』で超人思想を述べた。該当本文に戻る
*11 経営企画部への配属後、写真フィルムの需要予測を命じられた。だが、デスクワークにフラストレーションを感じた古森氏はあり余るエネルギーを発散するために、四股を踏んだり、毎日のようにロッカーに頭をぶつけたりしていた。「力があり余っていたんだよ」。古森氏が頭でへこませたロッカーはずっと残っていたという。該当本文に戻る
日経ビジネス2013年3月4日号 44~49ページより目次