社屋は今にも崩れそうな木造2階建て。築30年は経過しており、東京・環状8号線沿いにあるため外壁は排ガスで煤(すす)けてみすぼらしい。1階は社長夫婦が住み込みで暮らし、2階が小さな作業場になっている。

 「ちゃんとカネを払ってくれるのかな」。特許事務所を経営する日比恆明・弁理士は、大田区にあるその会社を初めて訪問した時、そう思ったという。

(イラスト:浅賀 行雄)
~ビリオネアも多いが、頭の中は「消費<仕事」~
集中ゾーン
IT(情報技術)を中心とする成長市場に加え、ニッチ製造業。具体的には、特殊用途の運搬車両や食品機械、防災用品、包装機械など

消費スタイル
多忙なため、日常生活は意外なほど庶民的な人も。企業秘密の保全や反社会的勢力対策などのため、意識的に目立とうとしない人もいる

資産の状況
フロー・ストックバランス型

“お化け屋敷会社”の正体

 ところが、いざ仕事を受けると、支払いはどの取引先よりも早く、請求した月末には耳を揃えて入金してくる。請求額は1円たりとも値切ろうとしない。取引を始めて半年後には、100万円以上の経費がかかる米国での特許出願を依頼してきた。「何でこんな小さな会社のカネ回りがいいんだ?」。日比氏がその謎を完全に解明できたのは、社長であるA氏と冗談を言い合う仲になってからだ。

 「驚くことに、みすぼらしい外観は世を忍ぶ仮の姿で、その中身は超のつく優良企業だった」。日比氏はこう振り返る。

 この会社の得意技は、あるセキュリティー機器の特殊な電子回路の製造。極めてニッチながら市場を長年独占し、原価3万円の製品を推定30万円の卸値で出荷していた。十分な個人資産を持ちながらA氏が努めて地味な暮らしをしていた狙いは3つ。1つは、うまみのある市場を世間から隠すこと。もう1つは、取引先からの値引き要請への予防線を引くこと。そして、税務署に“痛くもない腹”を探られないためだった。

 人知れず高収益な事業を個人経営し、地道に資産を蓄積していく。実は、A氏こそこの国で暮らす富裕層の典型的な姿の1つだ。

 市場調査会社のランドスケイプが約9500万件の消費者データベースを基に実施した独自試算によると、推計資産が100万ドル(約8200万円)を超える日本の富裕層は2012年現在、187万2582人。うち33.6%と最大のシェアを占めるのは、芸能人でもプロ野球選手でも政治家でもなく、企業経営者だ。その大半は、中小企業の社長と考えていい。

 「私は東京に在住する年齢63歳の経営者で、3歳年下の妻と2人の子供がいます。会社を起こしてから既に30年近くの月日が流れていて、その間、妻や従業員たちと苦労をともにしてきました。資産は今では約72億円あります」。これは2003年に、同志社大学の橘木俊詔教授が富裕層調査を実施した際、回答者から届いた手紙の1つだ(出所:『日本のお金持ち研究』)。

 日本の富裕層の一角は、こうした名もなき企業の社長で占められているのである。

「年商3億円」が最もカネがたまる

日本の富裕層の中核は、芸能人でもプロ野球選手でもなく中小企業経営者(左上)。名もなき大富豪社長の出没スポットと噂されるJR大森駅前(写真上:時事通信、下:大槻 純一)

 もちろん、中小企業の経営者すべてにミリオネア、ビリオネアになるチャンスがあるわけではない。弁理士の日比氏は、企業家と接する中で、億万長者を育む中小企業は特定のジャンルに集積している事実に気がついた。

 例えば、飲食業や小売業といったサービス業、ソフトウエア業界、フランチャイズ加盟店の経営者に資産家は少なかった。逆に、超優良企業が多かったのは、ニッチ製造業。特に、(1)市場規模が3億円以下で大企業が参入してこない(2)類似品のないオリジナル品(3)商品が部品でなく完成品──という3条件が揃った分野では、資産家に遭遇する確率が高かったという。具体的には、特殊用途の運搬車両や食品機械、防災用品、包装機械などだ。

 「その意味では、不況風が吹き荒れているかに映る大田区などモノ作りの町には、実は資産家が多い。平日の昼間、JR大森駅前を歩いているサンダル、ジャンパー姿の中高年には、数百坪の土地と数億円の現金を持つ“隠れカネ持ち”がかなり含まれる」(日比氏)

 もちろん、言うまでもなく、中小企業の経営は全体としては厳しく、国税庁の最新調査では黒字申告をしている法人の割合は、全申告数276万3000件中25.9%と3社に1社もない(出所:国税庁「平成23事務年度法人税等の申告課税実績の概要」)。

 だが、オーナー経営者は自分の給料を自由に決められ、家族を役員にして役員報酬で世帯収入を増やすこともできる。個人と会社の財布を一体化させ、生活費や遊興費を経費で処理することも可能だ。このため、ひとたび事業が軌道に乗れば、人によっては大企業のトップに勝るとも劣らぬ速さでカネ回りが良くなっていく。そんな幸運に恵まれた人が全国に60万人ほどいるというわけだ。

 企業経営者の多くは多忙だ。たとえ資金繰りに困らない優良企業であっても、現場での実務から経営戦略の立案、事業承継の準備までトップがやるべきことはいくらでもある。加えて、冒頭で紹介したA氏のように目立つのを嫌う人も多いため、億単位の資産を持つ割には庶民的な生活を選択する人が少なくない。

 30代にして約40億円の資産形成に成功したB氏もその1人。現在の年収は約5億円だが、仕事優先の毎日の結果、「自宅は豪邸ではないし、屋根があって寝られれば十分だと思っている。取引先とのつき合いで高級料亭にも行くが、吉野家の方が、気が楽」と話す。

 洋服のブランドにもこだわりはなく、よく着るのはユニクロ。贅沢と言える趣味の1つが海外旅行だが、「豪華なホテルに泊まることは少なく、HISのパック商品をよく使う」(B氏)。

「昼食は小諸そばが一番」

庶民に人気の食品、流通業は、富裕層にも人気。とりわけ今回の取材では、「小諸そば」のファンが多かった(写真左:大槻 純一、右2点:ロイター/アフロ)

 首都圏在住のC氏も、中小企業経営で資産を蓄積した資産家だ。現在60代で、保有資産は10億円以上。「急な出費が心配」という理由で、外出する時はワニ革の財布に100万円を入れて持ち運ぶ。「ただ結局、出費するのは飲み代程度。自分の知り合いを見ても、消費しないカネ持ちは多い」と笑う。

 事業のほか株式・不動産投資の成功で40代から毎年1億円以上稼ぎ続けたD氏は今年50歳。アーリーリタイアした今も多額の不動産収入を確保し、資産は3億円を超える。だが、妻とともども、生活用品の購入はもっぱらディスカウントストアのオーケー。「新幹線は普通の指定席で、飛行機もエコノミー。昼食は小諸そば」という。

 「日本人企業家の富裕層の多くは余暇よりも仕事。自社を優れた会社にするための情報収集にはカネと時間を惜しまないが、それ以外のことにはあまり関心がない」。こう話すのは、野村総合研究所の宮本弘之・金融コンサルティング部長だ。

 「私の余暇の過ごし方は、仕事です。仕事といっても、既に第一線は息子に譲っているので、私の会社が経営する支店が数十店舗あって、みんな元気にしているのか見に回って、そのついでに掃除をしていくのです。会社の周りをきれいにするのが好きなのです」(前出の橘木教授らの富裕層調査に寄せられた回答から抜粋)

 都心の高級マンションで暮らし、会員制のスポーツジムに通い、フェラーリやポルシェを乗り回す。そんな経営者もいないわけではないが、多数派ではない。多くの億万長者は、プライベートジェットも高級アクセサリーも買わず、仕事に没頭している。

日経ビジネス2012年12月10日号 28~30ページより

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