日野自動車が33ヘクタールに及ぶ日野・本社工場を2020年に閉鎖し、茨城県内の新工場に移管する方針を打ち出している東京都日野市。馬場弘融市長に立地自治体としての思いと、これからの行政の方策を聞いた。

(写真:丸毛透)

 日野自動車の日野・本社工場の閉鎖を知ったのは、2011年1月20日付の新聞報道だ。朝、出張先のホテルで起床し、部屋に届いていた新聞に手に取ると、「日野自、本社工場を閉鎖」という1面トップの見出しが目に飛び込んできた。慌てて市役所の職員と連絡を取り合った後、出張に同行していた近隣自治体の首長と1階のロビーで落ち合い、工場閉鎖の影響を話し合った。

 この日の夕方には予定を変更して市役所に戻り、「身体の一部をもぎとられるような寂しさを感じる」というコメントを発表した。「日野」という名前を持つ会社の主要工場が日野市からなくなるわけで、1つの工場がなくなるということを超えた影響が出てくると思ったためだ。

 日野自が日野市に進出したのは戦前のこと。もともとは旧陸軍の指導によって多摩地域に集められた軍需工場の1つだった。それがディーゼル技術を生かして大型トレーラーなどの開発に乗り出し、戦後、有力な商用車メーカーの1つに育っていった。

 一方、日野市の戦後の歩みは、工業化とは正反対のものだった。1966年には国の首都圏整備の計画に沿って工場誘致条例を廃止し、工業都市から良好な住宅地へと街づくりの方針を転換。交通の便や自然に恵まれた首都圏のベッドタウンとして発展を遂げてきた。

 この頃から、もともと日野自の社員らが住んでいた工場周辺にも、次第に同社と関係のない住民が増え、日野市には夜間の騒音に関する苦情が申し立てられるようになった。

 良好な住宅地をうたう手前、行政の役割は住民の要望を日野自側に伝えることが中心になる。後からやってきた住民が、もともとあった工場をいづらくしたという側面があったことは否めない。

 日野市では来年、市制50周年を迎える。日野自の撤退表明後、市では有識者を集めて、次の50年に向けた新たなビジョンの策定に着手した。この議論の中では、徒歩圏内あるいは自転車圏内に住まいや勤務先があり、医療、介護などの充実したサービスも受けられるというコンパクトな街づくりの方向性を打ち出している。

 今後、日野自の工場跡地に同じような大規模製造業が立地するとは思えない。ただし、日野市内には米系の大手医療機器メーカーが立地するなど、研究開発型企業を誘致する潜在力は高いと自負している。教育水準の高い住民も多く、彼らの雇用の受け皿を用意するためにも、引き続き企業誘致には真剣に取り組む。今回の工場閉鎖を変革のチャンスに変えていきたい。(談)

日経ビジネス2012年11月19日号 81ページより

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