新日鉄住金から韓国ポスコへの技術漏洩訴訟が始まった。“営業秘密”を漏らしたとされる元社員には、厳罰を求める。だが同時に、技術者の士気を高める制度整備も喫緊の課題だ。

 「会社に多大な貢献をした先輩技術者も、定年が来れば十把一絡げに放り出されるのを見るとね…。士気は上がらない」。大手化学メーカーの技術者、安田大輔氏(仮名)は嘆息する。

 このメーカーは、あるデジタル家電向け素材で世界断トツのシェアを持つ。技術漏洩には細心の注意を払い、社内の研究発表の場ですら、この素材に関する成果が明かされることはほとんどない。だが、技術者の待遇は、持ち場にかかわらず大差ないという。

 日亜化学工業の元技術者、中村修二氏が日亜に対し、青色LED(発光ダイオード)発明の対価を求めた特許訴訟は記憶に新しい。最終的に両者は和解したが、1審は日亜に約200億円の支払いを命じ、産業界に衝撃が走った。

 安田氏の勤務先でもこの訴訟を受け、収益に貢献した特許について技術者に一定割合を還元する報酬制度ができた。しかし、技術者の士気向上には大して役立っていないようだ。

 なぜなら、ライバル企業に手の内をさらすことになる特許化は基礎研究が主な対象で、製品化に近い研究の多くは“営業秘密(ノウハウ)”として社外秘となり、特許化しないからだ。そして、「営業秘密は会社の研究成果のざっと8割を占めるが、技術者に報いる明確な制度はない」と安田氏は話す。

 ライバル企業が欲しいのも製品化に近い営業秘密であり、産業スパイ予備軍である内部の不満分子に接触する。

 10月25日に始まった、新日鉄住金(旧新日本製鉄)による元社員と韓国鉄鋼大手ポスコに対する技術盗用訴訟でも、この営業秘密の漏洩が焦点だ。発電所の変圧器などに使う特殊鋼板「方向性電磁鋼板」の製造技術のうち、約40年の研究成果である営業秘密が漏れた結果、短期間でポスコにシェアを奪われたと新日鉄住金は主張する。

 同社の訴状によると、漏洩させたとして起訴した元技術者A氏は、入社から約32年にもわたって方向性電磁鋼板の開発に従事。開発の中心人物であったことは想像に難くない。退職後、ポスコと関係が深い韓国の大学の客員教授に就任。漏洩が事実なら、この前後に本格化したと考えられる。

「漏洩による損害は800億円」

 同社は、ポスコが営業秘密を基に得た利益の推定額などから、損害額を986億円と算出。このうち800億円分は、この元社員が漏洩に対する損害賠償義務を負うと明記。実際にはポスコ、同日本法人を加えた3者に連帯請求するが、仮に訴え通りの判決となれば、個人破産は免れない途方もない額だ。

 この元社員は退職した1995年と2005年の2度、「在職中に知り得た秘密を第三者に開示しない」などとする誓約書を提出したという。にもかかわらず、「現在も反省の意思がなく、(巨額の損害賠償には)懲罰的な意味合いもある」と新日鉄住金関係者は明かす。

 会社の屋台骨をも揺るがす営業秘密の漏洩に対し、厳罰に処す姿勢を示すことは、企業経営の観点からは当然。漏洩後の裁判を有利に進めるため、対象技術をより具体的に明記し、退職後まで効力がある秘密保持契約を技術者と結ぶ動きもある。

 だが、技術者を心理面と契約の双方で縛りすぎると、現場の閉塞感はむしろ強まり、開発力そのものが弱まる恐れもある。営業秘密漏洩への抑止力を強めつつ、いかに現場の士気も高めるか。日本企業は技術者の処遇のあり方を改めて問われている。

(伊藤 正倫)

日経ビジネス2012年11月5日号 18ページより目次

この記事はシリーズ「時事深層(2012年11月5日号)」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。