国境を巡る問題で、中国や韓国との関係が悪化する日本。アジア戦略の再構築が迫られる中、ASEANの重要度が増している。「近くて親しい」10カ国は生産拠点だけでなく、消費市場としても魅力は高い。

 東京から南西方向に約4000km離れたカリマンタン島(ボルネオ島)に、日本のエネルギー調達に欠かせない国がある。三重県ほどの広さに約42万人が暮らすブルネイだ。日本が輸入するLNG(液化天然ガス)の約1割が、ブルネイから運ばれてくる。

 ブルネイと日本は、単に資源の売り手と買い手という関係にとどまらない。1963年、ブルネイ沖に有望なガス田を発見した英蘭系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルが、LNGプロジェクトへの参画を求めたのが日本の三菱商事だった。

 このプロジェクトは三菱商事にとって大きな賭けとなった。1億2500万ドル(当時の為替レートで450億円相当)という出資金額は、当時の三菱商事の資本金をはるかに上回るもの。合弁契約にサインする時、藤野忠次郎社長(当時)の手が震えたという逸話が同社に残っているほどだ。

 果たして、その賭けは吉と出た。ブルネイで生産されたLNGが日本に初めて届いたのは72年。以来40年間、ブルネイ産LNGは日本のエネルギー安全保障になくてはならない存在となった。そしてこのLNGプロジェクトの成功が「総合商社の資源ビジネスの原型になった」と三菱商事の伊東理ブルネイ駐在事務所長は語る。およそ半世紀前は、総合商社にとっても海外事業は挑戦的なテーマだったのだ。

 ブルネイに対する日本の貢献はそれだけにとどまらない。石油・天然ガス資源に過度に依存した経済構造を見直したいブルネイ政府の意向を受け、川下の石油化学産業の立ち上げにも協力している。このプロジェクトには三菱商事のほか、伊藤忠商事や三菱ガス化学なども出資。天然ガスを原料にしたメタノールなどの生産が2009年から始まっている。

 ブルネイの1人当たりの名目GDP(国内総生産)は原油価格によって上下するが、おおむね3万ドル台を維持している。これは東南アジア諸国連合(ASEAN)の平均値を1ケタ上回るもので、シンガポールと並んで非常に高い水準と言える。ブルネイの発展に日本が果たしてきた役割は大きく、三菱商事の小林健社長は今年7月、同国のハサナル・ボルキア国王から民間人として最高位の叙勲を受けた。

ASEANへの投資が再び本格化

中国に比べればどこも“地味”
ASEANと周辺国・地域のGDP比較(2012年)
国際通貨基金(IMF)が2012年10月に公表した最新の予測値を基に、2012年における名目GDP(ドルベース)を国・地域ごとに比べた。ASEAN最大のGDP規模を誇るインドネシアを半径1の円で表すと中国は半径が3.04、最小のラオスは半径0.10の円となる

 ブルネイに限らず、ASEAN地域全体の発展にも日本は大きく貢献してきた。本連載の第1回でも触れたように、日本からASEAN諸国に対する直接投資額は過去から2011年末までの累計で9兆円近くに達する。一方、これまで日本企業のアジア戦略で中心的な役割を担ってきた中国への直接投資額は7兆円に届いていない。

 実は、日本から中国への投資が本格化したのは中国が世界貿易機関(WTO)に加盟した2001年から。1990年代まで日本からASEAN諸国への投資額は、平均すると中国向けの2倍だった。当時の日本は欧米向けの輸出拠点としてASEAN諸国を重要視しており、製造業を中心に投資が活発だった。

 ところが、21世紀に入って状況は一変した。中国の急速な経済発展によって日本企業の中国への関心が一気に高まった。安価で豊富な労働力を武器に「世界の工場」となった中国は、13億人超の人口を抱える「世界の市場」という魅力も兼ね備えていたからだ。

 上の図は2012年におけるアジア主要国・地域の名目GDPの大きさを比べたもの。世界第2位の経済大国となった中国と比較すると、ASEAN諸国の大半は豆粒のように小さい。企業にとって相手国の経済規模は重要な指標となるため、中国と比べて“地味”に映るASEAN諸国への投資も伸び悩んだ。振り返ってみれば21世紀の最初の10年間は、「中国の内需を取り込む」というかけ声の下に、日本の産業界に中国ブームが吹き荒れた期間だったとも言える。

 だが、潮目は再び変わりつつある。2008年以降、日本からASEAN諸国への投資が再び上昇トレンドに入ったのだ。2010年と2011年は2年連続で対ASEAN直接投資額が対中国を上回り、特に2011年は1兆5491億円と過去最高額を更新した。

 2012年に入っても勢いは衰えておらず、第2四半期は前年同期に比べて4割も増えた。このペースで推移すれば、2年連続で過去最高額を更新するのは確実な情勢だ。

 中国だけではなくアジア全体に投資を分散する「チャイナ・プラスワン」の動きが本格化した背景には、中国そのものの変化がある。

 1980年代から本格的に導入した一人っ子政策の影響で、中国では2000年代後半から若年労働者の数が減り始めた。結果として人件費の上昇ペースが上がり、安価で豊富な労働力という外国企業を引きつけてきた要因が急速に薄れてきた。

 中国政府自身も産業構造を変革するために、軽工業など付加価値の低い産業を国外に移転させる政策に舵を切った。海外から投資を呼び込むために外国企業に対して優遇税制などを用意してきたが、広東省など一部の省ではこうした優遇措置を徐々に縮小・撤廃している。

 採算が悪化した企業は中国からの撤退を余儀なくされている。そして、より安い人件費を求める企業の受け皿となっているのがASEAN諸国なのだ。

 改めてASEANに注目すると、その潜在的な魅力に驚かされる。着目すべきは労働力だ。中国の主要都市に比べるとASEAN各国の人件費はおおむね半分以下に抑えられる。しかも高齢化が始まった中国と異なり、若年層の人口構成比率が高い国が多い。国連の「長期人口予測」によれば、ASEAN全体の人口は2030年までに24.1%も拡大する。これは今後も長期にわたって労働力が確保しやすいことを示している。

 労働者が豊富ということは、消費市場としても魅力があることを意味する。シンガポールやブルネイを除き、ASEAN諸国の平均所得はまだ高くはないが、今後は日本企業がメーンターゲットとする中間所得者層が増えてくる。10カ国で合計すればASEAN地域の人口は既に6億人を突破しており、日本の5倍という巨大市場だ。

FTAの輪の中心にあるASEAN

アジア経済の“結び目”に
ASEANと他国・地域の主な経済連携(注:アジア太平洋自由貿易圏にミャンマー、カンボジア、ラオスは含まれず)

 ASEANには中国にはない特徴もある。その最たる例がASEANを核とした他国との経済連携と言えるだろう。

 東南アジアの国々は地政学的に中国とインドという巨大国家から常に圧力を受け続けてきた歴史があり、自分たちの発言力を高めるため1967年にASEANを発足させた。単独の国としては小さくても、10カ国でまとまれば経済的にも規模が大きくなるからだ。

 外部と連携することが自らの力になることを知るASEANは、他国とFTA(自由貿易協定)を締結することに積極的だ。既にインド、中国、韓国、日本とFTAを結び、それらすべてが発効済みとなっている。そしてASEANを中心としたFTAの輪を1つにまとめ上げようとする動きも始まった。東アジアRCEP(地域包括的経済連携)だ。

 東アジアでは地域内の経済連携を強めようとする機運が高まっていたが、主要国による主導権争いで膠着状態が続いていた。例えば、中国はASEANに中国・韓国・日本を加えた「ASEAN+3」を強力に推進してきたが、日本はそれにインド・オーストラリア・ニュージーランドを加えた「ASEAN+6」を推した。大国インドを加えるかどうかで、日中はつばぜり合いを演じてきた。

 その狭間で浮上したのがRCEPだ。参加国の数を縛らずに東アジア全体で経済を連携強化することをASEANが提案。これを日本や中国も受け入れ、今年4月のASEAN首脳会議(サミット)で作業部会を立ち上げ、11月からの交渉開始を目指すことで合意された。

 交渉が今後順調に進むかどうかは予断を許さないが、RCEPが日本にもたらすメリットは大きい。例えば、日本で生産した液晶パネルを使ってタイで組み立てた薄型テレビをインドに輸出する場合、従来は関税がかかっていた。日本で生産したパネルの付加価値が高いため生産国がタイとは認められず、ASEANとインドの間で結んだFTAのメリットを生かせなかった。

 ところがRCEPによって広域FTAが認められれば、国境を越えた生産プロセスの構築がかなり自由になる。日本で生産した部品や部材をASEANに持ち込み、そこで加工・組み立てた製品を中国やインドを含むRCEP域内に輸出する場合、原則として関税がかからなくなるからだ。

 このように日本のアジア戦略を考えるうえで、ASEANは極めて重要な役割を担う。尖閣諸島を巡る国境問題をきっかけに、日本と中国の関係はかつてないほど緊迫している。中国が日本にとって重要な市場であることに変わりはないが、日本製品の不買運動がどこまで深刻度を増すのか極めて不透明だ。そのため、中国ではなくASEAN諸国への投資を拡大する日本企業が今後増えていくだろう。

望まれているうちが華

 救いと言えるのがASEAN諸国で日本のイメージが良いこと。東南アジアでも第2次世界大戦の際に旧日本軍に占領された国は複数あるが、中国に比べて対日感情ははるかに良い。

 要因は様々あるが、ODA(政府開発援助)などを通じて日本が相手国の発展に貢献してきた功績が正当に評価されている証しと言えるだろう。中国の発展にも日本が多大な貢献をしてきたのは歴史的な事実だが、そう考える中国人はまれだ。むしろ「愛国教育」の名の下に、日本への憎悪が拡大・再生産されている。これはASEAN諸国と決定的に異なる点である。

 マレーシアの「東方政策(ルックイースト)」に代表されるように、ASEAN諸国には戦後目覚ましく経済を発展させた日本に対する尊敬の念がある。日本からの投資や技術を必要としている国も多く、日本と良好な関係を保つことが国益に資するとも考えている。ならば、望まれているうちに進出する方が投資効果は高いと言えるだろう。「近くて親しい国」との関係強化が今こそ求められている時はない。それは「近くて遠い国」との関係改善にも必ず生きてくるはずだ。

スリン・ピッツワン(ASEAN事務総長)に聞く
ASEANは日本のベストパートナー

 かつてマハティール博士(マレーシア元首相)が「ルックイースト」で提唱したように、日本の優れた要素をASEANは学びたい。日本は第2次世界大戦のつらい経験を経て、30年とか40年というわずかな期間で世界第2位の経済大国に成長した。これは奇跡であり、すべてのASEAN諸国が成し遂げたいという目標でもある。特に私が注目するのが技術を生み出した方法、工業化が成し遂げられた過程、そして富が分配された仕組みだ。そのため日本のすべての国民が発展の果実を享受することができた。これはとても貴重で、重要なことである。

 ASEANの発展に日本は多大な貢献をしてくれた。日本がいなければ、ASEANは今とは随分異なっていただろう。ASEANは今、市場としてのコネクティビティー(連結性)を高めるために物流の整備を必要としている。これは道路や鉄路だけでなく、通信環境の整備も含まれる。この分野でも日本が技術と資金を提供することを望む。ASEANが市場としての一体性を高めれば、それは日本を含む東アジアのメリットにつながる。

 日本と中国が国境線を巡り、関係が悪化していることを危惧している。ただ、隣国同士は常に難しい問題を抱えていて、緊迫する場面もある。これは国際社会では自然なことで、ASEAN諸国の一部も中国と若干の問題を抱えている。中国との関係が緊張したので日本は代替投資先を探すだろうが、ASEANは日本のニーズに合致するパートナーになり得る。ASEANには10の選択肢があり、それぞれがユニークだ。

 (今年、カンボジアで開催されたASEAN外相会議で、意見が集約できなかったなど)ASEANの中にも、意見の相違はある。ASEANの結束力に疑いの声が上がっていることは認識しているが、ASEANが10カ国で構成された共同体であることを思い出してほしい。最も重要なのは、ASEANのメンバーが地域の発展のために互いを必要としていることに同意することである。ASEANは、ないよりあった方が加盟国にはメリットは多いはず。相違があったとしても、それは統合に向けたプロセスであると捉えるべきなのだ。(談)

(北京支局 坂田 亮太郎、吉野 次郎、上木 貴博)
日経ビジネス2012年11月5日号 82~85ページより目次